遠羅天釜 / 『遠羅天釜』開仏知見と大福長者の子
問敎への如くとは如何なる敎へをか指や四安樂の法門か五種の法師の行持か曰然ず方便品に謂ゆる開佛知見道故出現於世の本文經中の眼目なり番々出世の如來無量恒沙の法を說給へども何れも一切衆生に佛知見を開かしめん爲なり然らば佛知見の望なくて如何なる法を行じたりとも諸佛の本懷に契事は努々これ有べからず開佛知見とは一心の妙法を發明する事なり悲みても悲むべきは今末世澆季の世の中なれば一心の妙法の沙汰はすたれ果て思ひ〱の有樣なりたま〱有に似たるも此頃は皆々敎へ事になりて云甲斐もなき風情なり大日經にも如實知自心と說給ひたるものを顧る人さゑなけれ法華經の敎に隨はず妙法は何地に有もしらでうろ〱として西ぞ東ぞとて混さわぎに騷廻りて佛道なりとて月日を送るは譬へば此に大福長者あらんに初め多少の艱難を經て限りもなき田地を切開きて儞等も此田地を耕して我如く大福長者になれとて大勢の子供に優劣もなく過分の田地を譲與へたりしに父の敎へに隨はずして何れも他國に流浪し人の門戶に傍乞食するもあり我は鏡とぎなりとて瓦を把て磨行もあり粟稗の鳥を追てすくみ居もあり長者の子なりとて自身は乞食非人の體にて亂りに人を輕しむるもあり田畑の帳面ばかり每日繰かへして田畑の有處も知ぬもあり帳面さねあれば恐るゝ事はなきぞとて恣に惡行を行ずるもあり我は長者の作法を知たりとて飢渴て作法ばかりを行ずるもあり田畑の有處もしらで晝夜に田畑と叫もあり田地の廣大なるを少し許り見付て大驕慢して婬酒食肉心に任せて亂行なるもありて長者の心に契たる子は一人もなきが如し田地とは一心の妙法を指なり帳面とは諸經論を云なり人の門戶に傍て乞食するとはかの開佛知見の大事は自身艱難刻苦して冷暖自知する事なるを末世になりては人の敎へを受て正體もなき事を聞覺へて是を大悟とする事なりこれは法華經の中の窮子ならずや方等部にては四果の聖者をさへ二乘凡夫と呵責し給ひしものを人々の敎へ給ふ通りの埒もなくたわいもなく繩にもかづらにもかゝらぬ事ならば何しに佛は六年まで雪山に閉籠て皮骨連立し絲を以て瓦を編立たる如く瘦衰へ蘆すゝきの膝を突貫て臂まで穿ち拔たるをも覺へ給はず目のあたり雷の落て牛馬を打殺したるをも御覺へましまさぬ程苦吟し給ひて初めて佛知見を開き給ひたるは如何なる事ぞや
新字:問教への如くとは如何なる教へをか指や四安楽の法門か五種の法師の行持か曰然ず方便品に謂ゆる開仏知見道故出現於世の本文経中の眼目なり番々出世の如来無量恒沙の法を説給へども何れも一切衆生に仏知見を開かしめん為なり然らば仏知見の望なくて如何なる法を行じたりとも諸仏の本懐に契事は努々これ有べからず開仏知見とは一心の妙法を発明する事なり悲みても悲むべきは今末世澆季の世の中なれば一心の妙法の沙汰はすたれ果て思ひ〱の有様なりたま〱有に似たるも此頃は皆々教へ事になりて云甲斐もなき風情なり大日経にも如実知自心と説給ひたるものを顧る人さゑなけれ法華経の教に随はず妙法は何地に有もしらでうろ〱として西ぞ東ぞとて混さわぎに騷廻りて仏道なりとて月日を送るは譬へば此に大福長者あらんに初め多少の艱難を経て限りもなき田地を切開きて儞等も此田地を耕して我如く大福長者になれとて大勢の子供に優劣もなく過分の田地を譲与へたりしに父の教へに随はずして何れも他国に流浪し人の門戸に傍乞食するもあり我は鏡とぎなりとて瓦を把て磨行もあり粟稗の鳥を追てすくみ居もあり長者の子なりとて自身は乞食非人の体にて乱りに人を軽しむるもあり田畑の帳面ばかり毎日繰かへして田畑の有処も知ぬもあり帳面さねあれば恐るゝ事はなきぞとて恣に悪行を行ずるもあり我は長者の作法を知たりとて飢渇て作法ばかりを行ずるもあり田畑の有処もしらで昼夜に田畑と叫もあり田地の広大なるを少し許り見付て大驕慢して婬酒食肉心に任せて乱行なるもありて長者の心に契たる子は一人もなきが如し田地とは一心の妙法を指なり帳面とは諸経論を云なり人の門戸に傍て乞食するとはかの開仏知見の大事は自身艱難刻苦して冷暖自知する事なるを末世になりては人の教へを受て正体もなき事を聞覚へて是を大悟とする事なりこれは法華経の中の窮子ならずや方等部にては四果の聖者をさへ二乗凡夫と呵責し給ひしものを人々の教へ給ふ通りの埒もなくたわいもなく縄にもかづらにもかゝらぬ事ならば何しに仏は六年まで雪山に閉籠て皮骨連立し糸を以て瓦を編立たる如く痩衰へ蘆すゝきの膝を突貫て臂まで穿ち抜たるをも覚へ給はず目のあたり雷の落て牛馬を打殺したるをも御覚へましまさぬ程苦吟し給ひて初めて仏知見を開き給ひたるは如何なる事ぞや
書き下し
問敎への如くとは如何なる敎へをか指や四安樂の法門か五種の法師の行持か曰然ず方便品に謂ゆる開佛知見道故出現於世の本文經中の眼目なり番々出世の如來無量恒沙の法を說給へども何れも一切衆生に佛知見を開かしめん爲なり然らば佛知見の望なくて如何なる法を行じたりとも諸佛の本懷に契事は努々これ有べからず開佛知見とは一心の妙法を發明する事なり悲みても悲むべきは今末世澆季の世の中なれば一心の妙法の沙汰はすたれ果て思ひ〱の有樣なりたま〱有に似たるも此頃は皆々敎へ事になりて云甲斐もなき風情なり大日經にも如實知自心と說給ひたるものを顧る人さゑなけれ法華經の敎に隨はず妙法は何地に有もしらでうろ〱として西ぞ東ぞとて混さわぎに騷廻りて佛道なりとて月日を送るは譬へば此に大福長者あらんに初め多少の艱難を經て限りもなき田地を切開きて儞等も此田地を耕して我如く大福長者になれとて大勢の子供に優劣もなく過分の田地を譲與へたりしに父の敎へに隨はずして何れも他國に流浪し人の門戶に傍乞食するもあり我は鏡とぎなりとて瓦を把て磨行もあり粟稗の鳥を追てすくみ居もあり長者の子なりとて自身は乞食非人の體にて亂りに人を輕しむるもあり田畑の帳面ばかり每日繰かへして田畑の有處も知ぬもあり帳面さねあれば恐るゝ事はなきぞとて恣に惡行を行ずるもあり我は長者の作法を知たりとて飢渴て作法ばかりを行ずるもあり田畑の有處もしらで晝夜に田畑と叫もあり田地の廣大なるを少し許り見付て大驕慢して婬酒食肉心に任せて亂行なるもありて長者の心に契たる子は一人もなきが如し田地とは一心の妙法を指なり帳面とは諸經論を云なり人の門戶に傍て乞食するとはかの開佛知見の大事は自身艱難刻苦して冷暖自知する事なるを末世になりては人の敎へを受て正體もなき事を聞覺へて是を大悟とする事なりこれは法華經の中の窮子ならずや方等部にては四果の聖者をさへ二乘凡夫と呵責し給ひしものを人々の敎へ給ふ通りの埒もなくたわいもなく繩にもかづらにもかゝらぬ事ならば何しに佛は六年まで雪山に閉籠て皮骨連立し絲を以て瓦を編立たる如く瘦衰へ蘆すゝきの膝を突貫て臂まで穿ち拔たるをも覺へ給はず目のあたり雷の落て牛馬を打殺したるをも御覺へましまさぬ程苦吟し給ひて初めて佛知見を開き給ひたるは如何なる事ぞや
現代語訳
問う。教えのとおりにとは、どのような教えを指すのか。四安楽行の法門か、五種法師の行持か。答える。そうではない。方便品にいう「開仏知見道、故出現於世」(仏の知見を開かせるために世に出現する)の本文こそ、経中の眼目である。次々に出世される如来が無量恒沙の法を説かれたのも、いずれも一切衆生に仏知見を開かせるためである。そうであれば、仏知見を開く望みがなくて、どのような法を行じたとしても、諸仏の本懐にかなうことは決してあるはずがない。仏知見を開くとは、一心の妙法を発明することである。悲しんでも悲しみきれないのは、今の末世澆季の世の中で、一心の妙法の沙汰は廃れ果て、思い思いの有様となったことである。たまたまあるように見えるものも、このごろはみな教え事(教義の知識)になって、言う甲斐もない風情である。大日経にも「如実に自心を知る」と説かれているのに、顧みる人さえなく、法華経の教えに従わず、妙法はどこにあるかも知らず、うろうろとして、西だ東だと混雑して騒ぎ回り、それを仏道だと言って月日を送るのは、たとえば、ここに大福長者がいて、初め多少の艱難を経て限りない田地を切り開き、おまえたちもこの田地を耕して私のような大福長者になれと、大勢の子供に優劣なく過分の田地を譲り与えたのに、父の教えに従わず、みな他国に流浪し、人の門戸に寄りかかって乞食をする者もあり、自分は鏡磨きであると言って瓦を取って磨く者もあり、粟や稗につく鳥を追って縮こまっている者もあり、長者の子であると言って自身は乞食非人の姿でみだりに人を軽んじる者もあり、田畑の帳面ばかりを毎日繰り返して田畑のありかも知らない者もあり、帳面さえあれば恐れることはないと言って勝手に悪行をする者もあり、自分は長者の作法を知っていると言って飢え渇きながら作法ばかり行う者もあり、田畑のありかも知らずに昼夜に田畑と叫ぶ者もあり、田地の広大なことを少しばかり見つけて大驕慢となり、淫酒食肉を心のままにして乱行する者もあって、長者の心にかなった子は一人もないようなものである。田地とは一心の妙法を指す。帳面とは諸経論をいう。人の門戸に寄りかかって乞食するとは、あの開仏知見の大事は、自身が艱難刻苦して冷暖自知することであるのに、末世になっては人の教えを受けて、正体もないことを聞き覚え、それを大悟とすることである。これは法華経の中の窮子ではないか。方等部においては、四果の聖者さえも二乗の凡夫と叱責されたものを、人々が教えられるとおりのしまりもなくたわいもない、縄にも蔓にもかからないことであるなら、どうして仏は六年まで雪山に閉じこもって、皮骨が連なり、糸で瓦を編み立てたように痩せ衰え、芦やすすきが膝を突き抜けて肘まで穿ち抜けたのも覚えず、目の当たりに雷が落ちて牛馬を打ち殺したのも覚えられないほど苦吟されて、初めて仏知見を開かれたのは、どういうことであろうか。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
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遠羅天釜・『遠羅天釜』妙法と蓮華の喩え子細は大凡手蹟にもせよ畫圖にもせよ誰々は琴の妙を得たり誰々は琵琶の妙を得たりと云れんずる人も其妙とは如何なる場所を申す事に侍るぞと問れたらん時に如何なる辯才利口の人にても中々言葉に演る事は叶はざる事なり去程に父子不傳の妙とて吾大切なる一子にさへ敎る事は能はず妙處に到つては吾とても覺ゑず知ぬ處より働き出る事なり人々具足の妙法の心性も左の如し只今此文を披覽し或ひは笑ひ或ひは談じ緒環の絲繰出す如く果しもなく五人に逢ても十人に逢ても少しも間違もなく働きもて行事不思議なる有樣ならずや然るに何物が斯の如く自由には働く事ぞと内に向ひて尋ね求むるに聲もなく臭もなし然ば一向に頑空無記なる物にして木石の如くなりやと思へば例の通り千變萬化自由自在にして有と云んとすれば有に非ず無と云んとすれば無に非ず言語道斷脫洒自在なる處を假に且く妙法とは名付給ひたる事なり蓮華とは蓮の泥土の底に有ても少しも泥土に汚されず妙なる色香を具足して失はず時を得て麗しく咲出るは此妙法の佛心の衆生に在ても穢れず減らず佛に在ても淨からず增ず佛も凡夫にて在し時は一切衆生に少しも違はせ給はで五欲の泥土に汚され給ふは左ながら、蓮の泥中に在が如し其後靈山に於て本具の心性を發明し給ひて希有なる哉一切衆生如來の智慧德相を具すと高聲に唱へ給ひて頓漸半滿の諸經を說宣三界の大導師と成給ひて梵天帝釋に尊信せられ給へば蓮の泥中を出て麗しく發けたるが如し蓮の泥中に屹度具足して居たりし色香を水上に咲出すが如く佛も無量恒沙の法を宣給へども外より持來り給ふに非ず凡夫にてをはせし時屹度具足し給ひし佛性の有樣を其儘に宣給ふ者なり衆生にてをはせし時も成佛の本懷を遂給ひて後も一心の妙法は少しも添減なきが如く蓮の泥中にありし時も咲亂れたる夏も少しも變遷なきに等し故に假用ひて且く一心の妙法に譬へ給ひたる者なり是即ち人々具足の佛心を妙法蓮華經と名づけ給ひたる慥なる證據ならずや
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