遠羅天釜 / 『遠羅天釜』妙法と蓮華の喩え
子細は大凡手蹟にもせよ畫圖にもせよ誰々は琴の妙を得たり誰々は琵琶の妙を得たりと云れんずる人も其妙とは如何なる場所を申す事に侍るぞと問れたらん時に如何なる辯才利口の人にても中々言葉に演る事は叶はざる事なり去程に父子不傳の妙とて吾大切なる一子にさへ敎る事は能はず妙處に到つては吾とても覺ゑず知ぬ處より働き出る事なり人々具足の妙法の心性も左の如し只今此文を披覽し或ひは笑ひ或ひは談じ緒環の絲繰出す如く果しもなく五人に逢ても十人に逢ても少しも間違もなく働きもて行事不思議なる有樣ならずや然るに何物が斯の如く自由には働く事ぞと内に向ひて尋ね求むるに聲もなく臭もなし然ば一向に頑空無記なる物にして木石の如くなりやと思へば例の通り千變萬化自由自在にして有と云んとすれば有に非ず無と云んとすれば無に非ず言語道斷脫洒自在なる處を假に且く妙法とは名付給ひたる事なり蓮華とは蓮の泥土の底に有ても少しも泥土に汚されず妙なる色香を具足して失はず時を得て麗しく咲出るは此妙法の佛心の衆生に在ても穢れず減らず佛に在ても淨からず增ず佛も凡夫にて在し時は一切衆生に少しも違はせ給はで五欲の泥土に汚され給ふは左ながら、蓮の泥中に在が如し其後靈山に於て本具の心性を發明し給ひて希有なる哉一切衆生如來の智慧德相を具すと高聲に唱へ給ひて頓漸半滿の諸經を說宣三界の大導師と成給ひて梵天帝釋に尊信せられ給へば蓮の泥中を出て麗しく發けたるが如し蓮の泥中に屹度具足して居たりし色香を水上に咲出すが如く佛も無量恒沙の法を宣給へども外より持來り給ふに非ず凡夫にてをはせし時屹度具足し給ひし佛性の有樣を其儘に宣給ふ者なり衆生にてをはせし時も成佛の本懷を遂給ひて後も一心の妙法は少しも添減なきが如く蓮の泥中にありし時も咲亂れたる夏も少しも變遷なきに等し故に假用ひて且く一心の妙法に譬へ給ひたる者なり是即ち人々具足の佛心を妙法蓮華經と名づけ給ひたる慥なる證據ならずや
新字:子細は大凡手跡にもせよ画図にもせよ誰々は琴の妙を得たり誰々は琵琶の妙を得たりと云れんずる人も其妙とは如何なる場所を申す事に侍るぞと問れたらん時に如何なる弁才利口の人にても中々言葉に演る事は叶はざる事なり去程に父子不伝の妙とて吾大切なる一子にさへ教る事は能はず妙処に到つては吾とても覚ゑず知ぬ処より働き出る事なり人々具足の妙法の心性も左の如し只今此文を披覧し或ひは笑ひ或ひは談じ緒環の糸繰出す如く果しもなく五人に逢ても十人に逢ても少しも間違もなく働きもて行事不思議なる有様ならずや然るに何物が斯の如く自由には働く事ぞと内に向ひて尋ね求むるに声もなく臭もなし然ば一向に頑空無記なる物にして木石の如くなりやと思へば例の通り千変万化自由自在にして有と云んとすれば有に非ず無と云んとすれば無に非ず言語道断脱洒自在なる処を仮に且く妙法とは名付給ひたる事なり蓮華とは蓮の泥土の底に有ても少しも泥土に汚されず妙なる色香を具足して失はず時を得て麗しく咲出るは此妙法の仏心の衆生に在ても穢れず減らず仏に在ても浄からず增ず仏も凡夫にて在し時は一切衆生に少しも違はせ給はで五欲の泥土に汚され給ふは左ながら、蓮の泥中に在が如し其後霊山に於て本具の心性を発明し給ひて希有なる哉一切衆生如来の智慧徳相を具すと高声に唱へ給ひて頓漸半満の諸経を説宣三界の大導師と成給ひて梵天帝釈に尊信せられ給へば蓮の泥中を出て麗しく発けたるが如し蓮の泥中に屹度具足して居たりし色香を水上に咲出すが如く仏も無量恒沙の法を宣給へども外より持来り給ふに非ず凡夫にてをはせし時屹度具足し給ひし仏性の有様を其儘に宣給ふ者なり衆生にてをはせし時も成仏の本懐を遂給ひて後も一心の妙法は少しも添減なきが如く蓮の泥中にありし時も咲乱れたる夏も少しも変遷なきに等し故に仮用ひて且く一心の妙法に譬へ給ひたる者なり是即ち人々具足の仏心を妙法蓮華経と名づけ給ひたる慥なる証拠ならずや
書き下し
子細は大凡手蹟にもせよ畫圖にもせよ誰々は琴の妙を得たり誰々は琵琶の妙を得たりと云れんずる人も其妙とは如何なる場所を申す事に侍るぞと問れたらん時に如何なる辯才利口の人にても中々言葉に演る事は叶はざる事なり去程に父子不傳の妙とて吾大切なる一子にさへ敎る事は能はず妙處に到つては吾とても覺ゑず知ぬ處より働き出る事なり人々具足の妙法の心性も左の如し只今此文を披覽し或ひは笑ひ或ひは談じ緒環の絲繰出す如く果しもなく五人に逢ても十人に逢ても少しも間違もなく働きもて行事不思議なる有樣ならずや然るに何物が斯の如く自由には働く事ぞと内に向ひて尋ね求むるに聲もなく臭もなし然ば一向に頑空無記なる物にして木石の如くなりやと思へば例の通り千變萬化自由自在にして有と云んとすれば有に非ず無と云んとすれば無に非ず言語道斷脫洒自在なる處を假に且く妙法とは名付給ひたる事なり蓮華とは蓮の泥土の底に有ても少しも泥土に汚されず妙なる色香を具足して失はず時を得て麗しく咲出るは此妙法の佛心の衆生に在ても穢れず減らず佛に在ても淨からず增ず佛も凡夫にて在し時は一切衆生に少しも違はせ給はで五欲の泥土に汚され給ふは左ながら、蓮の泥中に在が如し其後靈山に於て本具の心性を發明し給ひて希有なる哉一切衆生如來の智慧德相を具すと高聲に唱へ給ひて頓漸半滿の諸經を說宣三界の大導師と成給ひて梵天帝釋に尊信せられ給へば蓮の泥中を出て麗しく發けたるが如し蓮の泥中に屹度具足して居たりし色香を水上に咲出すが如く佛も無量恒沙の法を宣給へども外より持來り給ふに非ず凡夫にてをはせし時屹度具足し給ひし佛性の有樣を其儘に宣給ふ者なり衆生にてをはせし時も成佛の本懷を遂給ひて後も一心の妙法は少しも添減なきが如く蓮の泥中にありし時も咲亂れたる夏も少しも變遷なきに等し故に假用ひて且く一心の妙法に譬へ給ひたる者なり是即ち人々具足の佛心を妙法蓮華經と名づけ給ひたる慥なる證據ならずや
現代語訳
子細は、そもそも書にせよ絵にせよ、誰それは琴の妙を得ている、誰それは琵琶の妙を得ているなどと言われる人も、その妙とはどのような所を言うのかと問われたとき、どれほど弁舌の達者な人でも、言葉で言い表すことはとてもできない。それゆえ父子不伝の妙と言って、わが大切な一子にさえ教えることができず、妙処に至っては、自分でも覚えず、知らぬところから働き出るのである。人々がそなえている妙法の心性も同様である。ただ今この文を披き見て、笑ったり談じたり、緒環の糸を繰り出すようにきりなく、五人に会っても十人に会っても少しも間違いなく働いてゆくのは、不思議な有様ではないか。ところで、何物がこのように自由に働くのかと内に向かって尋ね求めると、声もなく臭いもない。それでは一向に頑空無記(ただ空っぽで何もない)で木石のようなのかと思えば、いつもどおり千変万化、自由自在であって、有と言おうとすれば有ではなく、無と言おうとすれば無ではない。言語道断、脱洒自在なところを、仮にしばらく妙法と名づけられたのである。蓮華とは、蓮が泥土の底にあっても少しも泥に汚されず、妙なる色と香りをそなえて失わず、時を得て麗しく咲き出るものである。これは、この妙法の仏心が、衆生にあっても穢れず減らず、仏にあっても浄まらず増さないのと同じである。仏も凡夫でおられた時は一切衆生と少しも違わず、五欲の泥に汚されておられたのは、ちょうど蓮が泥の中にあるようなものである。その後、霊山において本来そなえた心性を発明され、「希有なるかな、一切衆生は如来の智慧徳相を具す」と高らかに唱えられ、頓・漸・半・満の諸経を説き宣べて三界の大導師となり、梵天・帝釈に尊び信じられたのは、蓮が泥の中を出て麗しく開いたようなものである。蓮が泥の中にしかとそなえていた色香を水の上に咲き出すように、仏も無量恒沙の法を説かれたが、外から持ってこられたのではなく、凡夫でおられた時にしかとそなえておられた仏性のありさまを、そのまま説かれたのである。衆生でおられた時も、成仏の本懐を遂げられた後も、一心の妙法は少しも増減がないのは、蓮が泥の中にあった時も、咲き乱れた夏も、少しも変わらないのと同じである。ゆえに、仮に用いて、しばらく一心の妙法に譬えられたのである。これこそ、人々がそなえている仏心を妙法蓮華経と名づけられた、確かな証拠ではないか。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
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