遠羅天釜 / 『遠羅天釜』易きを取るか難きを取るか
蓋し佛道も上古は大ひに難く今時は大ひに易しとするか且羅蔔を煨し芋栗を煮るが如く初めは硬く後には輭かなるものとするが今時の易きが是ならば古への難きは非ならん古への難きが是ならば今時の易きは非ならん古への難きは苦吟する事は甚だ苦吟す纔かに發轉する時は忽ち賢聖佛祖たり那邊を透過し今時を透過して毫釐も觸着すれば電轉じ星飛ぶ今時の易きは殊勝なる事は甚だ殊勝なり望み見る時は畫圖の賢聖僧の如し纔かに發轉する時は依然として困魚箔に止り跛鼈甕裏に落つ今時を透らず那邊を透らず拶着すれば瞎驢氷稜に上る今時の易きを取んか古への難きを取んか如何に末世なればとていひ甲斐もなき有樣なり古人も末々は禪法も正體もなく成果べきを知給ひけるにや妙心を瘡紙に求め正法を口談に付すとは兼て悲み云置れたるなるべし此事もし紙授口傳にて濟べくは神光の臂を斷ち玄沙の足を傷ひ法心は頭腫法燈の淚を落す事はこれあるべからず人は兎もあれ角もあれ我は是非〱晝夜に間もなく首題を唱へて眞の法華のあり樣を見届くべきぞと親切にさへ唱へ給はゞ雪山には入ず頭は腫ずとも決定必定自性の妙法蓮華は麗しく開け侍るべしたゞ肝要は自心の妙法を見屆けずば置まじきぞと望み深き程貴き事は無事なり如來世尊も自心の妙法を見屆け給はざりし間は流轉常沒の凡夫に少しも違ましまさで生死徃來し給ひき末後雪山に於て自心の妙法を見付給ひて初めて正覺を成就し給ふ事なり瓦を磨くとは八識賴耶の無分別識を認て本來の面目なりと合點して妄念さへ無れば其迹は鏡の如くなる佛心ぞ只鏡の萬境を寫して鴉は黒く鷺は白く柳は綠に花は紅に少しも錯らす照せども毫釐も迹を留ぬ如く時々に勤めて拂拭せよと敎へられて晝夜に妄念を拂ふは瓦を磨き粟稗の鳥を逐に同じ是を識神を認むと云ふ山河大地を照破する光明の發する事はなき事なり此類の修行は昔より大唐にも聞多き事なり南嶽大師の馬祖の菴前にて瓦を磨き給ふも馬祖に此意を知しめん爲なり去るに依て長沙大師の偈に曰學道之人不識眞只爲從前認識神無量劫來生死本癡人喚作本來人と是故に慈明眞淨息耕大慧等の祖師齒を切つて觝排して親切を盡されし事なり其外の諸師の有樣は逐一擧するに及ばず大凡三世十方の間に見性せざるの佛祖なく見性せざるの賢聖はなき事なり是萬古不易の大綱なり
新字:蓋し仏道も上古は大ひに難く今時は大ひに易しとするか且羅蔔を煨し芋栗を煮るが如く初めは硬く後には輭かなるものとするが今時の易きが是ならば古への難きは非ならん古への難きが是ならば今時の易きは非ならん古への難きは苦吟する事は甚だ苦吟す纔かに発転する時は忽ち賢聖仏祖たり那辺を透過し今時を透過して毫釐も触着すれば電転じ星飛ぶ今時の易きは殊勝なる事は甚だ殊勝なり望み見る時は画図の賢聖僧の如し纔かに発転する時は依然として困魚箔に止り跛鼈甕裏に落つ今時を透らず那辺を透らず拶着すれば瞎驢氷稜に上る今時の易きを取んか古への難きを取んか如何に末世なればとていひ甲斐もなき有様なり古人も末々は禅法も正体もなく成果べきを知給ひけるにや妙心を瘡紙に求め正法を口談に付すとは兼て悲み云置れたるなるべし此事もし紙授口伝にて済べくは神光の臂を断ち玄沙の足を傷ひ法心は頭腫法灯の涙を落す事はこれあるべからず人は兎もあれ角もあれ我は是非〱昼夜に間もなく首題を唱へて真の法華のあり様を見届くべきぞと親切にさへ唱へ給はゞ雪山には入ず頭は腫ずとも決定必定自性の妙法蓮華は麗しく開け侍るべしたゞ肝要は自心の妙法を見届けずば置まじきぞと望み深き程貴き事は無事なり如来世尊も自心の妙法を見届け給はざりし間は流転常没の凡夫に少しも違ましまさで生死往来し給ひき末後雪山に於て自心の妙法を見付給ひて初めて正覚を成就し給ふ事なり瓦を磨くとは八識頼耶の無分別識を認て本来の面目なりと合点して妄念さへ無れば其迹は鏡の如くなる仏心ぞ只鏡の万境を写して鴉は黒く鷺は白く柳は緑に花は紅に少しも錯らす照せども毫釐も迹を留ぬ如く時々に勤めて払拭せよと教へられて昼夜に妄念を払ふは瓦を磨き粟稗の鳥を逐に同じ是を識神を認むと云ふ山河大地を照破する光明の発する事はなき事なり此類の修行は昔より大唐にも聞多き事なり南嶽大師の馬祖の菴前にて瓦を磨き給ふも馬祖に此意を知しめん為なり去るに依て長沙大師の偈に曰学道之人不識真只為従前認識神無量劫来生死本痴人喚作本来人と是故に慈明真浄息耕大慧等の祖師歯を切つて觝排して親切を尽されし事なり其外の諸師の有様は逐一挙するに及ばず大凡三世十方の間に見性せざるの仏祖なく見性せざるの賢聖はなき事なり是万古不易の大綱なり
書き下し
蓋し佛道も上古は大ひに難く今時は大ひに易しとするか且羅蔔を煨し芋栗を煮るが如く初めは硬く後には輭かなるものとするが今時の易きが是ならば古への難きは非ならん古への難きが是ならば今時の易きは非ならん古への難きは苦吟する事は甚だ苦吟す纔かに發轉する時は忽ち賢聖佛祖たり那邊を透過し今時を透過して毫釐も觸着すれば電轉じ星飛ぶ今時の易きは殊勝なる事は甚だ殊勝なり望み見る時は畫圖の賢聖僧の如し纔かに發轉する時は依然として困魚箔に止り跛鼈甕裏に落つ今時を透らず那邊を透らず拶着すれば瞎驢氷稜に上る今時の易きを取んか古への難きを取んか如何に末世なればとていひ甲斐もなき有樣なり古人も末々は禪法も正體もなく成果べきを知給ひけるにや妙心を瘡紙に求め正法を口談に付すとは兼て悲み云置れたるなるべし此事もし紙授口傳にて濟べくは神光の臂を斷ち玄沙の足を傷ひ法心は頭腫法燈の淚を落す事はこれあるべからず人は兎もあれ角もあれ我は是非〱晝夜に間もなく首題を唱へて眞の法華のあり樣を見届くべきぞと親切にさへ唱へ給はゞ雪山には入ず頭は腫ずとも決定必定自性の妙法蓮華は麗しく開け侍るべしたゞ肝要は自心の妙法を見屆けずば置まじきぞと望み深き程貴き事は無事なり如來世尊も自心の妙法を見屆け給はざりし間は流轉常沒の凡夫に少しも違ましまさで生死徃來し給ひき末後雪山に於て自心の妙法を見付給ひて初めて正覺を成就し給ふ事なり瓦を磨くとは八識賴耶の無分別識を認て本來の面目なりと合點して妄念さへ無れば其迹は鏡の如くなる佛心ぞ只鏡の萬境を寫して鴉は黒く鷺は白く柳は綠に花は紅に少しも錯らす照せども毫釐も迹を留ぬ如く時々に勤めて拂拭せよと敎へられて晝夜に妄念を拂ふは瓦を磨き粟稗の鳥を逐に同じ是を識神を認むと云ふ山河大地を照破する光明の發する事はなき事なり此類の修行は昔より大唐にも聞多き事なり南嶽大師の馬祖の菴前にて瓦を磨き給ふも馬祖に此意を知しめん爲なり去るに依て長沙大師の偈に曰學道之人不識眞只爲從前認識神無量劫來生死本癡人喚作本來人と是故に慈明眞淨息耕大慧等の祖師齒を切つて觝排して親切を盡されし事なり其外の諸師の有樣は逐一擧するに及ばず大凡三世十方の間に見性せざるの佛祖なく見性せざるの賢聖はなき事なり是萬古不易の大綱なり
現代語訳
思うに、仏道は上古には大いに難しく、今時は大いに易しいとするのか。ところで、大根を灰に埋めて焼き、芋や栗を煮るように、初めは硬く後には軟らかくなるものとするのが、今時の易しいという意味の是であるなら、昔の難しいというのは非であろう。昔の難しいのが是であるなら、今時の易しいのは非であろう。昔の難しさは、苦吟することは甚だしい苦吟で、わずかに発転する時には、たちまち賢聖仏祖となり、あちら(彼岸)を透過し、今時を透過して、毫釐でも触れれば稲妻が走り星が飛ぶようである。今時の易しさは、殊勝なことは甚だ殊勝で、望み見る時は絵に描いた賢聖僧のようである。わずかに発転する時には、依然として困った魚が簗にとどまり、足の悪い鼈が甕の中に落ちるようなものである。今時を透らず、あちらを透らず、突き当たれば、盲の驢馬が氷の角を登るようなものである。今時の易しいほうを取るか、昔の難しいほうを取るか。いかに末世だといっても、言う甲斐のない有様である。古人も末々は禅法も正体がなくなり果てることを知っておられたのであろうか、「妙心を瘡紙(古い紙)に求め、正法を口談に付す」と、かねて悲しんで言い置かれたのであろう。この事がもし紙面の授与や口伝で済むのであれば、神光(慧可)は臂を断ち、玄沙は足を傷め、法心は頭が腫れ、法灯は涙を落とすようなことはなかったはずである。人はともかくも、私は是非とも昼夜に絶え間なく首題を唱えて、真の法華のありさまを見届けようと、親切に唱えられるなら、雪山には入らず、頭は腫れなくとも、決定必定、自性の妙法蓮華は麗しく開くであろう。ただ肝要なのは、自心の妙法を見届けずにはおかないと、望みが深いほど貴いことはない。如来世尊も、自心の妙法を見届けられなかった間は、流転常没の凡夫と少しも違わず、生死に往来された。最後に雪山において自心の妙法を見付けられて、初めて正覚を成就されたのである。瓦を磨くとは、八識の頼耶の無分別の識を認めて本来の面目であると合点し、「妄念さえなければ、その跡は鏡のような仏心である。ただ鏡が万境を映して、鴉は黒く鷺は白く、柳は緑に花は紅に、少しも誤らず照らしながら、毫釐も跡を留めないように、時々に努めて払い拭え」と教えられて、昼夜に妄念を払うことであり、これは瓦を磨き、粟や稗の鳥を追うのと同じである。これを識神を認めるという。山河大地を照らし破る光明が発することはない。この類の修行は、昔から大唐にも聞くことが多い。南嶽大師が馬祖の庵の前で瓦を磨かれたのも、馬祖にこの意を知らせるためである。それゆえ長沙大師の偈に「道を学ぶ人は真を識らず、ただ従前の識神を認むるが為なり。無量劫来生死の本、癡人は喚んで本来の人と作す」とある。このゆえに、慈明・真浄・息耕・大慧らの祖師は、歯ぎしりして批判し、親切を尽くされたのである。その外の諸師の有様は、逐一挙げるに及ばない。そもそも三世十方の間に、見性しない仏祖はなく、見性しない賢者聖者はいない。これは万古不易の大綱である。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
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