遠羅天釜 / 『遠羅天釜』疑団は羽翼、禅門に称名なき古
如上の大疑現前純一無雜の體裁を聞き及ばれては怪しく恐ろしく氣味わろき事に思し召さるべけれども無量劫來生死の重關を蹈破し十方の如來本覺の內證に徹底する程の目出度き大事なるものを左ばかりの艱辛はあらではあるべきと覺悟是あるべし熟願ふに無の字を參究して大疑現前し大死一番して大歡喜を得る底は數限りも無く是あり名號を唱へて少分の力らを得る底は兩三箇ならでは聞き及ばずなん侍り惠心院の僧都も智德と云ひ信心力と云ひ無の字か麻三斤の話など參究し玉びたらんには自身眞如なる程の事は一月二月乃至一年半年程の中には發明し玉ふべきものを名號誦經の功によりて四十年の精彩を盡し玉ひたるなるべし是唯疑團のをはするとをはせざるとに依れり須らく知るべし疑團は道に進む羽翼なる事を法然上人の如き道德仁義精進勇猛暗中に聖敎を披覽し玉ふに眼の光りを用ひ玉ひける程なれば少し疑團だに在したらんには立地に大事了畢し往生決定し玉ふべきものを豈に索短ふして深泉を汲まざるなど悲歎し玉ふに及ばんや去る程に楊岐黃龍眞淨息耕佛鑑妙喜の諸老をざへに大凡百千億の諸佛名あり百千億の諸神咒あり授與すべく擧揚すべき法門は不足も無き中に特り此無の字を與へて擧揚せしむ豈に長處なからんや願ふに無の字は疑團起り易く名號は疑團起り難き故なるべし然るに禪門に於て專唱稱名往生を希望する事は古へ禪苑凋枯せず眞風未だ地に墜ざりし日は一向に無き事也西天の四七唐土の二三傳燈歷代の祖師南嶽靑原馬祖石頭百丈黃檗南泉長沙臨濟興化南院風穴首山汾陽慈明黃龍眞淨晦堂息耕妙喜及び五家七宗の諸老をざへに梁陳隋唐宋元の間六朝の大宗匠各々孤危の宗風を立して臂に奪命の神符を繫け口に法窟の爪牙を咬鳴して只宗風の地に墜ん事を恐れて晝夜に願輪に答つて屹々として怠る事無し破口にも往生淨土の事を論ぜず悲哉時乎命乎大雅枯て桑間湧き古曲啞して鄭衞震ふ流へて大明の末に至つて雲棲の殊宏なる者あり參玄力ら足らず見道眼暗ふして進むに寂滅の樂みなく退くに生死の恐れあり悲嘆押さへ難く終に遠公蓮社の遺韻を慕つて祖庭孤危の眞修を捨て自ら蓮池大師と稱して彌陀經の疏鈔を造り大ひに主張して後學を引く皷山の元賢永覺大師淨慈要語造つて擊節して輔け佐く此に於て漢土に普く扶桑に溢れて終に救ふ事無きに至る
新字:如上の大疑現前純一無雑の体裁を聞き及ばれては怪しく恐ろしく気味わろき事に思し召さるべけれども無量劫来生死の重関を蹈破し十方の如来本覚の内証に徹底する程の目出度き大事なるものを左ばかりの艱辛はあらではあるべきと覚悟是あるべし熟願ふに無の字を参究して大疑現前し大死一番して大歓喜を得る底は数限りも無く是あり名号を唱へて少分の力らを得る底は両三箇ならでは聞き及ばずなん侍り恵心院の僧都も智徳と云ひ信心力と云ひ無の字か麻三斤の話など参究し玉びたらんには自身真如なる程の事は一月二月乃至一年半年程の中には発明し玉ふべきものを名号誦経の功によりて四十年の精彩を尽し玉ひたるなるべし是唯疑団のをはするとをはせざるとに依れり須らく知るべし疑団は道に進む羽翼なる事を法然上人の如き道徳仁義精進勇猛暗中に聖教を披覧し玉ふに眼の光りを用ひ玉ひける程なれば少し疑団だに在したらんには立地に大事了畢し往生決定し玉ふべきものを豈に索短ふして深泉を汲まざるなど悲嘆し玉ふに及ばんや去る程に楊岐黄竜真浄息耕仏鑑妙喜の諸老をざへに大凡百千億の諸仏名あり百千億の諸神咒あり授与すべく挙揚すべき法門は不足も無き中に特り此無の字を与へて挙揚せしむ豈に長処なからんや願ふに無の字は疑団起り易く名号は疑団起り難き故なるべし然るに禅門に於て専唱称名往生を希望する事は古へ禅苑凋枯せず真風未だ地に墜ざりし日は一向に無き事也西天の四七唐土の二三伝灯歴代の祖師南嶽青原馬祖石頭百丈黄檗南泉長沙臨済興化南院風穴首山汾陽慈明黄竜真浄晦堂息耕妙喜及び五家七宗の諸老をざへに梁陳隋唐宋元の間六朝の大宗匠各々孤危の宗風を立して臂に奪命の神符を繋け口に法窟の爪牙を咬鳴して只宗風の地に墜ん事を恐れて昼夜に願輪に答つて屹々として怠る事無し破口にも往生浄土の事を論ぜず悲哉時乎命乎大雅枯て桑間湧き古曲唖して鄭衛震ふ流へて大明の末に至つて雲棲の殊宏なる者あり参玄力ら足らず見道眼暗ふして進むに寂滅の楽みなく退くに生死の恐れあり悲嘆押さへ難く終に遠公蓮社の遺韻を慕つて祖庭孤危の真修を捨て自ら蓮池大師と称して弥陀経の疏鈔を造り大ひに主張して後学を引く鼓山の元賢永覚大師浄慈要語造つて撃節して輔け佐く此に於て漢土に普く扶桑に溢れて終に救ふ事無きに至る
書き下し
如上の大疑現前純一無雜の體裁を聞き及ばれては怪しく恐ろしく氣味わろき事に思し召さるべけれども無量劫來生死の重關を蹈破し十方の如來本覺の內證に徹底する程の目出度き大事なるものを左ばかりの艱辛はあらではあるべきと覺悟是あるべし熟願ふに無の字を參究して大疑現前し大死一番して大歡喜を得る底は數限りも無く是あり名號を唱へて少分の力らを得る底は兩三箇ならでは聞き及ばずなん侍り惠心院の僧都も智德と云ひ信心力と云ひ無の字か麻三斤の話など參究し玉びたらんには自身眞如なる程の事は一月二月乃至一年半年程の中には發明し玉ふべきものを名號誦經の功によりて四十年の精彩を盡し玉ひたるなるべし是唯疑團のをはするとをはせざるとに依れり須らく知るべし疑團は道に進む羽翼なる事を法然上人の如き道德仁義精進勇猛暗中に聖敎を披覽し玉ふに眼の光りを用ひ玉ひける程なれば少し疑團だに在したらんには立地に大事了畢し往生決定し玉ふべきものを豈に索短ふして深泉を汲まざるなど悲歎し玉ふに及ばんや去る程に楊岐黃龍眞淨息耕佛鑑妙喜の諸老をざへに大凡百千億の諸佛名あり百千億の諸神咒あり授與すべく擧揚すべき法門は不足も無き中に特り此無の字を與へて擧揚せしむ豈に長處なからんや願ふに無の字は疑團起り易く名號は疑團起り難き故なるべし然るに禪門に於て專唱稱名往生を希望する事は古へ禪苑凋枯せず眞風未だ地に墜ざりし日は一向に無き事也西天の四七唐土の二三傳燈歷代の祖師南嶽靑原馬祖石頭百丈黃檗南泉長沙臨濟興化南院風穴首山汾陽慈明黃龍眞淨晦堂息耕妙喜及び五家七宗の諸老をざへに梁陳隋唐宋元の間六朝の大宗匠各々孤危の宗風を立して臂に奪命の神符を繫け口に法窟の爪牙を咬鳴して只宗風の地に墜ん事を恐れて晝夜に願輪に答つて屹々として怠る事無し破口にも往生淨土の事を論ぜず悲哉時乎命乎大雅枯て桑間湧き古曲啞して鄭衞震ふ流へて大明の末に至つて雲棲の殊宏なる者あり參玄力ら足らず見道眼暗ふして進むに寂滅の樂みなく退くに生死の恐れあり悲嘆押さへ難く終に遠公蓮社の遺韻を慕つて祖庭孤危の眞修を捨て自ら蓮池大師と稱して彌陀經の疏鈔を造り大ひに主張して後學を引く皷山の元賢永覺大師淨慈要語造つて擊節して輔け佐く此に於て漢土に普く扶桑に溢れて終に救ふ事無きに至る
現代語訳
以上のような大疑現前、純一無雑の様子を聞いては、怪しく恐ろしく、気味悪いこととお思いになるだろうが、無量劫来の生死の重関を踏破し、十方の如来の本覚の内証に徹底するほどのめでたい大事であるから、それほどの苦しみがなくてよいはずがない、と覚悟なさるがよい。よく考えてみるに、無字を参究して大疑が現前し、大死一番して大歓喜を得た者は数限りなくいるが、名号を唱えて少しの力を得た者は、二、三人しか聞き及ばない。恵心院の僧都も、智徳といい信心力といい、もし無字や麻三斤の話などを参究なさったなら、自身が真如であるほどのことは、一月二月、長くても一年半年のうちに発明なさったはずなのに、名号や誦経の功によって、四十年の精彩を尽くされたのであろう。これはただ、疑団があるかないかによる。知るべきである、疑団は道に進む羽翼であることを。法然上人のように、道徳仁義、精進勇猛で、暗がりで聖教を披き覧るのに眼の光を用いなさったほどであるから、少しでも疑団がおありだったなら、その場で大事を終えて往生を決定なさったはずで、綱が短くて深い泉を汲まずなどと悲嘆なさるには及ばなかったろう。そこで、楊岐、黄龍、真浄、息耕、仏鑑、妙喜といった諸老でさえ、およそ百千億の諸仏の名があり、百千億の諸神呪があり、授与し挙げ示すべき法門に不足はない中で、ひとりこの無字を与えて挙げさせた。どうして長所がないことがあろうか。思うに、無字は疑団が起こりやすく、名号は疑団が起こりにくいからであろう。ところが禅門において、専ら称名して往生を望むことは、昔、禅苑が衰えず、真風がまだ地に墜ちなかった日には、まったくなかったことである。西天の二十八祖、唐土の六祖、伝灯歴代の祖師、南嶽、青原、馬祖、石頭、百丈、黄檗、南泉、長沙、臨済、興化、南院、風穴、首山、汾陽、慈明、黄龍、真浄、晦堂、息耕、妙喜、および五家七宗の諸老に至るまで、梁・陳・隋・唐・宋・元の間の六朝の大宗匠は、それぞれ孤危の宗風を立て、肘に奪命の神符を掛け、口に法窟の爪牙を噛み鳴らして、ただ宗風が地に墜ちることを恐れ、昼夜に願輪に答え、屹々として怠ることがなかった。口が裂けても往生浄土のことを論じなかった。悲しいかな、時か命か。大雅は枯れて桑間の歌が湧き、古曲は啞して鄭衛の音が震う。流れて大明の末に至り、雲棲の袾宏という者があった。参玄の力が足りず、見道の眼が暗く、進んでも寂滅の楽しみがなく、退けば生死の恐れがあり、悲嘆を抑えがたく、ついに遠公の蓮社の遺韻を慕って、祖庭孤危の真修を捨て、自ら蓮池大師と称して阿弥陀経の疏鈔を作り、大いに主張して後学を引いた。鼓山の元賢、永覚大師は『浄慈要語』を作って膝を打って賛嘆し、これを輔け佐けた。ここにおいて漢土にあまねく、日本にあふれて、ついに救うことができないに至った。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』無字が勧められる理由と大疑無の字と名號と兩般なしと申す中に得力の遲速見道の淺深に到つては少しき子細無きにしもあらず大凡辨道參玄の上士情念の滲漏を塞斷し無明の眼膜を觸破するに到つては無の字に越へたる事は侍るべからず去程に五祖の演禪師の頌に趙州の露刃劍寒霜光焔々更擬問如何分身作兩段總じて參學は疑團の凝結を以て至要とす此故に道大疑の下に大悟あり疑がひ十分あれば悟り十分有りと又佛果和尙の曰く話頭を疑がはざるを大病とすと參玄の人纔かに大疑現前する事を得ば百人が百人千人が千人ながら打發せざるは是有るべからず若し人大疑現前する時只四面空蕩々地虛豁々地にして生にあらず死に非ず萬里の層氷裏にあるが如く瑠璃瓶裏に坐するに似て分外に清涼に分外に皎潔なり癡々呆々坐して起事を忘れ起て坐する事を忘る胸中一點の情念無ふして只一箇の無の字のみ有り恰かも長空に立つが如し此の時恐怖を生ぜず了智を添へず一氣に進んで退かざる則んは忽然として氷盤を擲摧するが如く玉樓を推倒するに似て四十年來未だ曾て見ず未だ曾て聞ざる底の大歡喜あらん此時に當つて生死涅槃猶如昨夢三千世界海中の漚一切の賢聖電拂の如し是を大徹妙悟囮地一下の時節と云ふ傳ふる事得ず說く事得ず恰かも水を飮で冷暖自知するが如けん十方を目前に銷融し三世を一念子に貫通す人間天上の間那箇の歡喜かこれに如ん是等の得力は學者親切に進まば纔かに三日五日の功にして必ず得ん如何が大疑現前する事を得んとならば靜處を好まず動處を捨てず我が此臍輪氣海總に是趙州の無無の字何の道理か有ると一切の情念思想を拋下し單々に參窮せんに大疑現前せざる底は半箇も亦無けん
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』無事禅の戒めと遠くない道此上猶又怠り給はずは禪門にいはゆる左手を握て中指を咬等の心地も次第に明かなるべし今時往々に道參禪無益なり話頭了じて什麼かせん即心即佛の直指なれば念の起るをも愁ず念の止たるをも喜ばず山賤の白木の合子只生れ付たる自性の儘なるがよきぞ漆つけねば剝色こそ無れとて日々徒に盲龜の空谷に入が如し去て以て足りとす此は是天竺の自然外道の所見なり恁麼にして佛心向上の宗旨なりと稱せば七村裏の土地も亦掌を撫して大笑すべきぞかし何が故ぞこれ總に長沙の謂ゆる識神を認得する底の凝人ならずや楞嚴に賊を認て子となす終に元淨明の體を知事能はずと呵せられしは此等の部類なり殊にしらず如來は四果の聖者の諸漏已盡し我法の眞理に達し神通具足し名稱普く聞へ給ふをさゑ禪を知りとは許可し給はず故に經曰我弟子大阿羅漢不能解此義唯有大菩薩衆應解此義とも說給へるものを見性の功さへなくて妄に自ら尊と稱す是何の心ぞや人は只兎もあれ萬緣を抛擲して唱るに越たる事はなき事なり去ながら題目ばかりの利益なりと偏執し給ふべからず眞言に限らず淨土に限らず何れも優劣あるべからず淨家の人々は專唱稱名の功力に依て是非〱一回唯心の淨土己身の彌陀の妙相を見屆けでや置べきと決烈の大志を憤起し頭然を救ふが如く間もなく唱へ進みたらんに佛も去此不遠と說給ひたる者をなどや七重の寶樹八功德池の有樣を見屆けずやはあるべき眞言の人々は陀羅尼微妙の威力に依て是非とも阿字不生の大日輪を拜し奉るべしと禪門に於て一則の話頭を擧揚するが如く精進勇猛の憤志を震つて繰たらんに高野大師も不轉肉身と唱へ給ひたる者をなどかは彼金剛不壞の正體を磨出さずや有べき何れも死後を待て利益に預んと打延し給ふは不覺油斷の至り覺束なきものぞかし遠き事とな歎給ひぞ八重の潮路を隔てたる唐土天竺の事を見給へ聞給へと云にこそ遠き事とは歎くべけれ自心を以て自心を見る吾瞳を以て吾瞳を見るより近き事には侍らずや深き事とな恐れ給ひそ九淵の潭の底千尋の海の中なる物を見給へ聞給へと云にこそ深き事とは恐るべけれ吾心を以て吾心を見る吾鼻を以て吾鼻を嗅より近き事には侍らずや世は末世なれども法は更々末世ならず末世なりとて打捨顧み給はずば寳の山に入ながら自ら飢凍を苦しむが如し末世には去事は及ばぬ事とな恐れ給ひぞ遠くは惠心院の僧都近くは赤澤の即往山城の圓悉何れも稱名の力に依て右の素懷を遂給ひたるぞかし法然上人も此望は深くおわしけれども先達なき故に翼短ふして長空に翔らざる心地なりと宣ひき
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』往生とは見性のことである工夫も亦然り一人有り常に趙州の無の字を擧揚し一人有り常に專唱稱名せんに無の字を擧する人は工夫純ならず志念堅からずんば縱い擧して十年二十年を經るとも何の利益か有ん稱名の行者は打成一片に稱名し純一無雜に專唱して穢土を觀せず淨土を求めず一氣に進んで退かずんば五日三日乃至十日を待ずして三昧發得し佛智煥發して立地に往生の大事を決定せん往生とは何をか云や畢竟見性の一着なり經に曰く我國に生れんと十念唱へたらん人の我國に往生せずんば正覺を取らじと誓ひ玉ふ我が國とは何れの處ぞ目前歷歷たる底の本具の自性に非ずや見性の人に非ずんばたやすく見る事能はじ若然らずんば今時諸方淨業の人人日日にとなへ唱へて千念萬念千億萬念す然ふして往生の大事を決定する底は半箇も亦無し知らず無量壽尊正覺を取る事を廢し玉はんか殊に知らず一念直に是往生極樂國豈に十聲を待んや此故に佛の宣玉はく勇猛の衆生の爲には成佛一念に在り懈怠の衆生の爲には涅槃三祇に亘ると說玉へり若無の字と稱名と兩般の看を成ば須らく知るべし盡く是邪魔外道の種族なる事を悲む所は今時淨業の行者往往に諸佛の本志を知らず西方に佛在りとのみ信じて西方は自己の心源なりと云事を知らず念佛の功課に依て虚空を飛過して死後西方へ行んとのみ覺悟す一生苦吟して往生の素懷を遂る事能ばず殊に知らず十方佛土中唯有一乘法なる事を
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』白隠の自述と二兎を追う戒め大凡世尊一代五千餘卷の金文有つて頓漸秘密不定の妙義を說き演べ玉ひたれども畢竟此の見性の大事を出ず故へに經に曰く唯此一事實餘二卽非眞と去る程に三世古今の間に見性せざるの佛祖なく見性せざるの賢聖は必定決定無き事なり山野七八歲より心を佛理に傾け十五歲の時出家十九歲にして行脚廿四歲にして初めて此の見性の大事に搔著す其後叢林を經普ねく諸善知識の門閫に跨がり博く諸經論を窺がひ略三敎の經典を探り及び諸子百家をさへに若し一法の自性の法門に超過せる有らば莊老列の道といへども必らず信受し推し弘めんと誓ひ侍りき今年六十五歲に到つて終ひに見性の大事に過たる法理を見ず左も侍らずば何しに妄りに紙墨を費やして覺へも無き事を書付け高覽に入れ侍るべきや只返す返すも見性の助けに便りよく侍へらば絶へずりも無く唱へ進みて一心不亂の田地に到り玉はば必定大歡喜の眉を開き玉ふべし若しそれ無の字を打捨て佛名を唱る事は專唱稱名の力らに依て見性分明に直に佛祖の骨髓に徹底する事を得ば是可なり縱ひ見性明白なる事を得ずとも稱名の功力に依て死後には必らず極樂に往生せん是一擧兩得萬全の良策なりとの底意ならば早速稱名の修行を放下し純一に無の字を擧揚し玉ふべし何が故ぞ斯れは是二百年來禪苑を荒廢し眞風を蠹害するの惡風俗杜撰の禪徒鄙俗下賤の邪見解なり夫れ禪宗は抓危が上へにも轉孤危ならん事を要し祖庭は嶮峻が上にも轉嶮峻なるを貴しとす常に要津を把定して凡聖を通ぜす一言を出す則ば三賢魂蕩し四果眼眩す一句を吐く則ば閑神恐れ走り野鬼悲しみ哭す木人の腸たを割き石女の髓を敲く棟梁の質あつて神俊の才を具する底の英伶の學者を見る則んば難透難解難信難入底の話頭を放つて正法眼藏を瞎却し涅槃妙心を攙奪す學者も亦蠱毒の鄕を過るが如く水も亦他の一滴をうけず堅に咬み橫に參じて情量の窟宅を破り智解の窠臼を拔き理盡き詞ば窮まり心死し意消して忽然として凡に非ず聖にあらず佛にあらず魔に非ざる底の奇怪の鈍瞎漢を放出して以て佛祖の深恩を報答す斯の如きの手段を法窟の爪牙と名け奪命の神符と云ふ大ひに上々根機の人に利あり中下の機は閣ひて顧みず淨家は却つて是に反す是れ又敬しつべきの一門なり
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』禅浄兼修を退ける理由淨土を事とするが如きは、攝取して捨てず、我を計り相に著する族に於いて、巧みに根機に逗ふ、蓋し逼和の法門なり。其の珠體より之を言へば、則ち幻化に非ずして何ぞや。是の故に圓覺經に曰く、不可說恒河沙の諸佛世界は、猶ほ空華の亂起亂滅するが如し。當に知るべし、一切の世界は皆な幻の如くにして住すと。是を以て實敎の明らかにする所、僉な無形を以て淨土と爲す。華嚴に曰く、眞に依りて往く、國土に非ずと。生公も亦た曰く、佛は有形の累ありて、土に託して以て居る。佛は是れ常住法身なり、何ぞ國土を須ゐん。當に知るべし、十方諸佛の有する所の國土は、悉く是れ幻化にして眞實に非ざることを、と。是に由りて之を觀れば、佛道は必ず茲に在らざること、鑿然たり。知らざる者は自ら謂ふ、禪にして淨土を兼ぬと。虎にして翼を挾む者なり。或いは謂ふ、禪にして淨土無しと。十人に九は路を蹉つ。然らば則ち彼の韓・墨・楊・申の徒の如きは、帝者をして國人の業を習はしめんと謂ふか。啻に其の祚を有つこと能はざるのみならず、必ず其の國を亡ぼすに至らん。苟くも其の道の明らかならざるを憂へば、惟だ痛勵密進して自ら其の德を全うするに在るのみ。奚ぞ兼ぬるを以て爲さん。華嚴觀に云く、有信不信の法界の信、是れ邪なるか、と。凡そ諸經論の中、具さに二行を明かす。一は無念、二は有念なり。皆な佛道を成ずべしと雖も、優劣は懸殊なり。參禪辨道は即ち無念無相の念佛にして、此を眞如三昧と謂ふ。淨土を欣求するは即ち存想計名の念佛にして、此を修習淨業と謂ふ。但だ能く不二に通達すれば、便ち眞の佛子たり。想ふに夫の兼ぬる者は、蓋し二本なるが故なり。觀經に云く、諸佛如來は是れ法界身なり。是の心は即ち是れ三十二相八十隨形好なり。是の心、佛と作り、是の心是れ佛なり、と。又た曰く、佛身の高さ六十萬億那由多恒河沙由旬、彼の佛の圓光は百億の三千大千世界の如し、と。如來誠諦の語、此に到りて內燈を顯示す。其の旨甚だ深し。名づけて恢廓廣大、超勝獨妙、建立常然、衰無く變無きの妙土と曰ふ。此くの如き妙土は、形相を以て莊嚴すべからず、金珠を以て修飾すべからざるなり。所以に金剛般若に曰く、若し菩薩、是の言を作さん、我れ當に佛土を莊嚴すべしと。是れ菩薩と名づけず。何を以ての故に。如來の說く莊嚴佛土とは、即ち莊嚴に非ず、是れを莊嚴と名づく、と。又た維摩經に曰く、其の心の淨きに隨ひて則ち佛土淨し、と。果して此くの如くんば、則ち參禪學道は豈に是れ佛土を莊嚴するに非ずや。彼の元明の禪者、自ら其の造詣の精ならざるを刷がんと欲す。故に傅會して以て之を文る。甚だしき者は邯鄲の步に過ぎざるなり。陽には之を慕ひ、陰には之に悖る。又た何をか取らん。世の佛を學ぶ者、狐疑して之を能く正す莫く、雷同して難を易に換ふ。則ち如來の正法眼藏、復た幾んど息まんとす。思はざるべけんや。吾が師の之を闢くこと廓如たり。豈に辯を好まんや。已むを得ざるなり。
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』客の問い 浄土は幻化か元明の禪家の流、往往にして偏へに佛を稱す。此れ武夫を明月に混じ、燕石を隋侯に雜ふるなり。爾來、天下の叢林、節を擊ちて相ひ從ひ、滔滔乎として踵を繼ぐ。宗風の陵夷は、職として是れに之れ由る。此の時に當たりて、無畏の一聲を假るに非ずんば、多少の頑皮をして、靸頭腦を裂破せしむるに由無し。向者に鍋嶋侯、書を馳せて之を致し、師に問ふ。師、兩端を叩きて竭くせり。針を霧海に視、珠を合浦に還すと謂ふべき者なり。一日、客有りて予に謂ひて曰く、「淨土の一門は如來の勝方便なり。馬鳴之を稱し、龍樹之を慕ふ。勝妙の國土、實に之れ有るに似たり。然るに今之を卻く。其の他の劣機、之を聞かば則ち必ず淨土を斷望せん」と。予曰く、「噫、淨土を事とするが如きは、如來不可思議の莊嚴海の中、此の事無きに非ず。只だ是れ鏡像幻化のみ。然りと雖も、幻化の幻化たる所以を識破すれば、則ち幻化の幻化と爲すべき無きなり。但だ法身は幽微にして法體は緣り難きを以て、且く念佛して形を觀、以て禮讃せしむ。是れ他無し、愚凡の障重きが故なり。若し夫れ大心の衆生は、那の處か是れ淨土ならざる。思ふに子の執する所は莊嚴有餘等なり。師の示す所は寂光理土なり。宜なるかな子の疑ひを生ずること。佛華嚴經に曰く、如來の淨土は、或いは如來の寶冠に在り、或いは耳璫に在り、或いは瓔珞に在り、或いは衣紋に在り、或いは毛孔に在り、と。此くの如き毛孔にも既に世界を容る。故に的かに知る、方處無く涯畔無きことを。蓋し二尊者の如きは、悲願廣大にして物の爲に前驅す。之を權に幻化の衣を著て幻化の國に生ぜんと願ふと謂はんか。之を此の土の本土を起たずして無生の往生を現すと謂はんか。之を要するに、如來出世の本懷、祖師應機の作用、其の跡は萬端なれども、其の致は一なり。但だ一切衆生をして佛知見に悟入せしめんと欲するなり。更に餘蘊無し。法華經に曰く、諸佛世尊は種種の方便、種種の譬喩、種種の因緣もて、是の法は皆な一佛乘の爲の故なり、と。諸の衆生の爲に諸法を演說す。是くの如くんば、則ち淨土の設けは、豈に一佛乘の助けと爲すに非ずや。吾が老師、上の如く丁寧に告誡す。豈に他有らんや。其の莊飾を卻けて、之に本色を呈す。譬へば眞金を以て啼を止むるが如し。苟くも黃葉と爲さば、他後に悔い有らん。又た元明の間、宗旨を屈辱する者の爲に激切する所有るは、則ち是れ屋裏に鼓を鳴らすの攻めなり。豈に敢へて他の信男信女の願生の人を敺驅して、自家の底を粧重する者ならんや。人有りて專ら稱名を修め、忽然として三昧を發得すれば、則ち期せずして然り、必ず然り。是れ佛道二つ無きが故なり。子其れ好く思へ。歷然として解すべし。」