遠羅天釜 / 『遠羅天釜』正念工夫こそ病を治す
兎にも角にも正念の工夫程貴ぶべく重んずべき事はなき事なるぞとよ正念の端的未だ悟入なからん人々は眞正の導師に見へて第一に決定し給ふべし決定あらん後は四威儀の間正念工夫打失せざるを第一とすべし大慧禪師曰那時是打失處那時是不打失處一切處に於て如是點檢せよとこれは是從上の諸聖正念工夫親切の樣子なりこれ則ち萬古不易の正修なり是を直心とも佛性とも菩提とも涅槃とも無位の眞人とも云なり此眞人は空劫以前空劫以後少しも病氣なく鼻もしみたる事はなき人なるぞ是を法華には久遠實成の古佛と稱歎し給へり南嶽の隨意願行に昔在靈山名法華今在西方名彌陀濁世末代名觀音と釋し給へるも此眞人の事なるぞかし此人を供養し此人を尊信し此人に親近して打失せずんば何れの病か治せざらん何れの道か成せざらんや佛法中には病疲れたる老女瘦悴けたる老夫なりとも正念工夫間斷無んば無病堅固の有力の人とす縱ひ七尺八尺の身財あつて身子の智圓かに滿慈の辨饒にして三經五論を講じ得五家七宗の奧義を究め盡して力周鼎をあげ眼寰宇を空じたりとも正念工夫なからん人をば臭爛膨壞の死人とする事なりあひかまへて容易に心得べからず寔に保ち難く寔に守り難きは正念工夫の大事なるぞや末代の悲しさは人每に名聞の心強く利養の心盛にして道心ありげに見せかけ莊り立れども正念工夫決定の人は得難き事なり增て正念工夫相續不斷の人を求むるに千人萬人が中に一人もなき事なるぞ
新字:兎にも角にも正念の工夫程貴ぶべく重んずべき事はなき事なるぞとよ正念の端的未だ悟入なからん人々は真正の導師に見へて第一に決定し給ふべし決定あらん後は四威儀の間正念工夫打失せざるを第一とすべし大慧禅師曰那時是打失処那時是不打失処一切処に於て如是点検せよとこれは是従上の諸聖正念工夫親切の様子なりこれ則ち万古不易の正修なり是を直心とも仏性とも菩提とも涅槃とも無位の真人とも云なり此真人は空劫以前空劫以後少しも病気なく鼻もしみたる事はなき人なるぞ是を法華には久遠実成の古仏と称嘆し給へり南嶽の随意願行に昔在霊山名法華今在西方名弥陀濁世末代名観音と釈し給へるも此真人の事なるぞかし此人を供養し此人を尊信し此人に親近して打失せずんば何れの病か治せざらん何れの道か成せざらんや仏法中には病疲れたる老女痩悴けたる老夫なりとも正念工夫間断無んば無病堅固の有力の人とす縦ひ七尺八尺の身財あつて身子の智円かに満慈の弁饒にして三経五論を講じ得五家七宗の奥義を究め尽して力周鼎をあげ眼寰宇を空じたりとも正念工夫なからん人をば臭爛膨壊の死人とする事なりあひかまへて容易に心得べからず寔に保ち難く寔に守り難きは正念工夫の大事なるぞや末代の悲しさは人毎に名聞の心強く利養の心盛にして道心ありげに見せかけ荘り立れども正念工夫決定の人は得難き事なり增て正念工夫相続不断の人を求むるに千人万人が中に一人もなき事なるぞ
書き下し
兎にも角にも正念の工夫程貴ぶべく重んずべき事はなき事なるぞとよ正念の端的未だ悟入なからん人々は眞正の導師に見へて第一に決定し給ふべし決定あらん後は四威儀の間正念工夫打失せざるを第一とすべし大慧禪師曰那時是打失處那時是不打失處一切處に於て如是點檢せよとこれは是從上の諸聖正念工夫親切の樣子なりこれ則ち萬古不易の正修なり是を直心とも佛性とも菩提とも涅槃とも無位の眞人とも云なり此眞人は空劫以前空劫以後少しも病氣なく鼻もしみたる事はなき人なるぞ是を法華には久遠實成の古佛と稱歎し給へり南嶽の隨意願行に昔在靈山名法華今在西方名彌陀濁世末代名觀音と釋し給へるも此眞人の事なるぞかし此人を供養し此人を尊信し此人に親近して打失せずんば何れの病か治せざらん何れの道か成せざらんや佛法中には病疲れたる老女瘦悴けたる老夫なりとも正念工夫間斷無んば無病堅固の有力の人とす縱ひ七尺八尺の身財あつて身子の智圓かに滿慈の辨饒にして三經五論を講じ得五家七宗の奧義を究め盡して力周鼎をあげ眼寰宇を空じたりとも正念工夫なからん人をば臭爛膨壞の死人とする事なりあひかまへて容易に心得べからず寔に保ち難く寔に守り難きは正念工夫の大事なるぞや末代の悲しさは人每に名聞の心強く利養の心盛にして道心ありげに見せかけ莊り立れども正念工夫決定の人は得難き事なり增て正念工夫相續不斷の人を求むるに千人萬人が中に一人もなき事なるぞ
現代語訳
ともかくも、正念の工夫ほど貴び重んじるべきことはないのである。正念の要点にまだ悟り入っていない人々は、真正の導師にお会いして、まず第一にこれと決定されるがよい。決定した後は、行住坐臥の間、正念の工夫を失わないことを第一とすべきである。大慧禅師は、いつが失う処で、いつが失わない処か、あらゆる場においてこのように点検せよ、と言われた。これは歴代の聖者が示した正念工夫の切実な有り様であり、そのまま万古不易の正しい修行である。これを直心とも、仏性とも、菩提とも、涅槃とも、無位の真人とも言う。この真人は、空劫以前も空劫以後も少しも病気をせず、鼻水をたらしたこともない人である。これを法華経では久遠実成の古仏と称えられた。南嶽の随意願行に、昔は霊山にあって法華と名づけ、今は西方にあって弥陀と名づけ、濁世末代には観音と名づける、と解釈されているのも、この真人のことなのである。この人を供養し、尊び信じ、親しく近づいて見失わなければ、どんな病が治らないことがあろう。どんな道が成就しないことがあろう。仏法においては、病み疲れた老女や痩せ衰えた老人であっても、正念の工夫が絶え間なければ、無病堅固の力ある人とする。たとえ七尺八尺の立派な体があり、舎利弗のように智慧は円かに、富楼那のように弁舌巧みで、三経五論を講じ、五家七宗の奥義を究め尽くし、力は周の鼎を挙げ、眼は天下を空しくするほどであっても、正念の工夫がない人は、臭く爛れ膨れた死人とされる。くれぐれも安易に心得てはならない。まことに保ちがたく、守りがたいのは正念工夫の大事である。末代の悲しさは、人ごとに名聞の心が強く利養の心が盛んで、道心があるように見せかけ飾り立てるが、正念の工夫を決定した人は得がたいことである。ましてや正念の工夫が絶え間なく続く人を求めれば、千人万人の中に一人もいないのである。
解説

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