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遠羅天釜 / 『遠羅天釜』日常を禅床とする正念工夫

只兎にも角にも諸大將の心がけ給はんずる坐禪は此正念工夫の不斷坐禪に超へたる事は侍るべからず此は是二百年來癈れ果たる古賢にて侍り何をか正念工夫と云ぞとならば咳唾掉臂動靜云爲吉凶榮辱得失是非束ねて一則の話頭となして臍輪氣海丹田の下に鐵石の如くに突居へ本尊には即ち大樹君諸侯大夫は吾同業影向の諸菩薩衆近習外樣の大小の諸臣は吾が舍利弗目連等の二乘の大弟子衆士庶萬民は吾が赤子の如くなる所化の衆生なりと思ぼして專ら仁恕の心これあるべし袴肩衣は直に是七條九條の大法衣兩口の打物は禪板机案馬鞍は一枚の坐蒲團山河大地は一箇の大禪床上下四維十方法界は自己本有の大禪窟陰陽造化は二時の粥飯天堂地獄淨剎穢土總に是吾が脾胃肝膽樂府內外三百疊は朝夕の看敎誦經千百億の須彌山を束ねて以て一片の脊梁骨とし其餘の進退揖讓射御書數皆是菩薩萬善同歸の妙行なりと觀念し大勇猛の信心を抽で彼內觀の眞修に和して起居動靜の間に於て那時か是打失の處那時か是不打失の處と時々に點檢する是古今の賢聖眞修の正路にて侍り去程に子思子も道は須臾も離るべからず離るべきは道に非ずと宣ひき魯論里仁の篇には造次必於是顚沛必於是とは片時も打失する事なかれとの敎にて侍り此道とは中庸の正道を云へり正道とは斯經難持若暫持者我即歡喜諸佛亦然と說給ひたる法華經の事にて侍り法華經とは即ち正念工夫の太事を云へり工夫とは自己本有の有樣を指事なりと覺悟これ有べし生死の大事を透脫し佛祖の正眼を睛却する底の眞實見性の正修にて侍れば中々容易の事にし侍らず只肝心は動靜二境の間逆順縱橫の上へに於て純一無雜打成一片の眞理現前して千人萬人の中に在ても萬里の曠野に獨立したる心地あつて彼龐老が謂ゆる雙耳如聾眼如盲なる境界は時々に此あるべし是を眞正大疑現前底の時節と申す事に侍り此時退かず勸め進み給はゞ氷盤を擲摧するが如く玉樓を推倒するに似て四十年來未だ曾て見ず未だ曾て開ざる底の大歡喜あらん

新字:只兎にも角にも諸大将の心がけ給はんずる坐禅は此正念工夫の不断坐禅に超へたる事は侍るべからず此は是二百年来癈れ果たる古賢にて侍り何をか正念工夫と云ぞとならば咳唾掉臂動静云為吉凶栄辱得失是非束ねて一則の話頭となして臍輪気海丹田の下に鉄石の如くに突居へ本尊には即ち大樹君諸侯大夫は吾同業影向の諸菩薩衆近習外様の大小の諸臣は吾が舎利弗目連等の二乗の大弟子衆士庶万民は吾が赤子の如くなる所化の衆生なりと思ぼして専ら仁恕の心これあるべし袴肩衣は直に是七条九条の大法衣両口の打物は禅板机案馬鞍は一枚の坐蒲団山河大地は一箇の大禅床上下四維十方法界は自己本有の大禅窟陰陽造化は二時の粥飯天堂地獄浄刹穢土総に是吾が脾胃肝胆楽府内外三百畳は朝夕の看教誦経千百億の須弥山を束ねて以て一片の脊梁骨とし其余の進退揖譲射御書数皆是菩薩万善同帰の妙行なりと観念し大勇猛の信心を抽で彼内観の真修に和して起居動静の間に於て那時か是打失の処那時か是不打失の処と時々に点検する是古今の賢聖真修の正路にて侍り去程に子思子も道は須臾も離るべからず離るべきは道に非ずと宣ひき魯論里仁の篇には造次必於是顛沛必於是とは片時も打失する事なかれとの教にて侍り此道とは中庸の正道を云へり正道とは斯経難持若暫持者我即歓喜諸仏亦然と説給ひたる法華経の事にて侍り法華経とは即ち正念工夫の太事を云へり工夫とは自己本有の有様を指事なりと覚悟これ有べし生死の大事を透脱し仏祖の正眼を睛却する底の真実見性の正修にて侍れば中々容易の事にし侍らず只肝心は動静二境の間逆順縦横の上へに於て純一無雑打成一片の真理現前して千人万人の中に在ても万里の曠野に独立したる心地あつて彼龐老が謂ゆる双耳如聾眼如盲なる境界は時々に此あるべし是を真正大疑現前底の時節と申す事に侍り此時退かず勧め進み給はゞ氷盤を擲摧するが如く玉楼を推倒するに似て四十年来未だ曽て見ず未だ曽て開ざる底の大歓喜あらん

書き下し

只兎にも角にも諸大將の心がけ給はんずる坐禪は此正念工夫の不斷坐禪に超へたる事は侍るべからず此は是二百年來癈れ果たる古賢にて侍り何をか正念工夫と云ぞとならば咳唾掉臂動靜云爲吉凶榮辱得失是非束ねて一則の話頭となして臍輪氣海丹田の下に鐵石の如くに突居へ本尊には即ち大樹君諸侯大夫は吾同業影向の諸菩薩衆近習外樣の大小の諸臣は吾が舍利弗目連等の二乘の大弟子衆士庶萬民は吾が赤子の如くなる所化の衆生なりと思ぼして專ら仁恕の心これあるべし袴肩衣は直に是七條九條の大法衣兩口の打物は禪板机案馬鞍は一枚の坐蒲團山河大地は一箇の大禪床上下四維十方法界は自己本有の大禪窟陰陽造化は二時の粥飯天堂地獄淨剎穢土總に是吾が脾胃肝膽樂府內外三百疊は朝夕の看敎誦經千百億の須彌山を束ねて以て一片の脊梁骨とし其餘の進退揖讓射御書數皆是菩薩萬善同歸の妙行なりと觀念し大勇猛の信心を抽で彼內觀の眞修に和して起居動靜の間に於て那時か是打失の處那時か是不打失の處と時々に點檢する是古今の賢聖眞修の正路にて侍り去程に子思子も道は須臾も離るべからず離るべきは道に非ずと宣ひき魯論里仁の篇には造次必於是顚沛必於是とは片時も打失する事なかれとの敎にて侍り此道とは中庸の正道を云へり正道とは斯經難持若暫持者我即歡喜諸佛亦然と說給ひたる法華經の事にて侍り法華經とは即ち正念工夫の太事を云へり工夫とは自己本有の有樣を指事なりと覺悟これ有べし生死の大事を透脫し佛祖の正眼を睛却する底の眞實見性の正修にて侍れば中々容易の事にし侍らず只肝心は動靜二境の間逆順縱橫の上へに於て純一無雜打成一片の眞理現前して千人萬人の中に在ても萬里の曠野に獨立したる心地あつて彼龐老が謂ゆる雙耳如聾眼如盲なる境界は時々に此あるべし是を眞正大疑現前底の時節と申す事に侍り此時退かず勸め進み給はゞ氷盤を擲摧するが如く玉樓を推倒するに似て四十年來未だ曾て見ず未だ曾て開ざる底の大歡喜あらん

現代語訳

ともかくも、諸大将が心がけなさる坐禅は、この正念工夫の不断坐禅にまさるものはない。これは二百年来すたれ果てた、古の賢者の道である。何を正念工夫というかといえば、咳をし唾を吐き、腕を振る立ち居、動静・行いの吉凶・栄辱・得失・是非をすべて束ねて一つの話頭とし、臍輪・気海・丹田の下に鉄石のように据えつけ、本尊には大樹君、諸侯・大夫は私と同業で影向する諸菩薩衆、近習・外様の大小の諸臣は私の舎利弗・目連などの二乗の大弟子衆、士庶万民は私の赤子のような教化の衆生と思われて、専ら仁と思いやりの心を持たれるべきである。袴と肩衣はそのまま七条・九条の大法衣、腰の二本の刀は禅板と机、馬の鞍は一枚の坐蒲団、山河大地は一つの大禅床、上下四維十方の法界は自己本有の大禅窟、陰陽の造化は朝夕二時の粥と飯、天堂・地獄・浄刹・穢土はすべて私の脾・胃・肝・胆、御殿の内外三百畳は朝夕の経典の学習と読誦、千百億の須弥山を束ねて一片の背骨とし、その余りの進退・揖譲・射御書数はみな菩薩の万善同帰の妙行である、と観念し、大いに勇猛な信心を奮い起こして、あの内観の真修に和して、起居動静の間に、いつが失った時か、いつが失わない時かと、時々に点検する。これが古今の賢聖の真修の正路である。そこで子思子も、「道は須臾も離るべからず、離るべきは道に非ず」と仰った。『論語』里仁篇に「造次にも必ずここにおいてし、顛沛にも必ずここにおいてす」とあるのは、片時も失ってはならないという教えである。この道とは、中庸の正道をいう。正道とは、「この経は持ちがたい、もし暫くの間でも持つ者あれば、我はすなわち歓喜し、諸仏もまたそうである」と説かれた法華経のことである。法華経とは、すなわち正念工夫の大事をいう。工夫とは、自己本有のありのままを指すことと悟りなさい。生死の大事を透脱し、仏祖の正眼をくらます、真実の見性の正しい修行であるから、決して容易なことではない。ただ肝心は、動静二境の間、逆順縦横の上で、純一無雑に打成一片の真理が現前し、千人万人の中にいても万里の曠野に独り立つような心地があって、あの龐居士のいわゆる「両耳は聾のごとく、眼は盲のごとし」という境界が、時々にあるはずである。これを真正の大疑現前の時節という。この時、退かず励み進みなさるなら、氷の盆を投げ砕くように、玉の楼閣を押し倒すように、四十年来まだ見たことも開いたこともない大歓喜があろう。

解説

白隠は、将軍や諸侯に向けて、咳唾や立ち居をすべて話頭とし、臍下に据えることを正念工夫と定義します。さらに袴や刀、馬の鞍、屋敷までを禅の道具に見立て、進退や射御書数もみな菩薩の行だと観念せよと説きます。そのうえで、いつ失い、いつ失わなかったかを点検せよと勧めます。日常の道具や所作を修行の場に見立てる発想は、仕事場の机や会議にも応用できます。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

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この章句が説くこと

正念工夫話頭大禅床点検法華経大疑現前

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