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遠羅天釜 / 『遠羅天釜』武士こそ不断坐禅に利あり

老夫壯年より思ひ付侍りけるは正念工夫の勝手には武士の身の上へ程よき事は有べからず武士は明け暮れに身を懦弱に持事叶ず出仕にも附合にも如何にも嚴重なる者なれば髮結立て上下か又は袴羽織にて大小手挾み折目高なる起居の上へには正念工夫は溢れ建るゝ程潔よく打見ゆ增てよき唆馬の太く逞きに打騎て百萬騎の敵軍をも人無き處を通る如く乘破り〱驅崩すべき顏色は天晴見事なる不斷坐禪かく工夫しもて行たらんには出家は一年にて得力これあらば武士は一月出家は百日にて得力是あらば武士は三日にも利運は開かるべき者を志なく案內知り給はぬ故に生唼磨墨とも云べき大馬の背上に閑々と八石五斗の無明妄想の重荷を建〱積載ていかめしげなる貌曲してあたりを拂つて乘連〱打通り給ふは近頃以て殘念なる風情ならずやかく大切なる場所をば遣過して我々は仕官の身なれば坐禪などする暇隙は勤めの內は存じも寄ぬ事なるぞなど宣ふ人々は海中に在乍ら水を尋ぬる心地こそすれ四十二章經には人に二十の難あり豪貴學道難と誠なる哉王侯より庶人に至るまで榮耀富貴の人々は數限りも無事に侍れど來生の苦輪を恐れ出離の要道を尋ね求むる人々は世界を一掃して一人も見へ侍らず是定めて金口の所說に違はじとの心なるべし只富貴の上にも富貴を貪ぼりて足る事を知らず榮耀の上にも榮耀を求めて飽事もなき世の中に何の善緣ぞや幕下のみ獨り富貴を見る事空華の如く榮耀を見る事夢幻に等しく常に無上の大道に賢慮を傾け予が艸廬を顧み給ふ事旣に三次昔し照烈の武侯が艸廬を顧み給ひしに等し彼は三國を並さん事を圖り此は三界を越ん事を求むその趣は同じといへども志しは大に異なり昔し武侯は鋤を棄命を委ねて以て三顧に答ふ老僧豈に三顧に報ずるに片言を惜まんや如何なる法理を書贈りてか幕下勇猛の精神を增長し圖らずも宗門向上の大事を透過し恰悅の眉を開き給へがしと祈る許りにかなはぬ文章にて斯まで書續けたるにて侍り去ながら宗門向上の大事は中々文字語言の力にても誘引ずべき事にし侍らず然れども修行の趣向錯まり給はずば自然に大事に契當し給はでやあるべき

新字:老夫壮年より思ひ付侍りけるは正念工夫の勝手には武士の身の上へ程よき事は有べからず武士は明け暮れに身を懦弱に持事叶ず出仕にも附合にも如何にも厳重なる者なれば髪結立て上下か又は袴羽織にて大小手挟み折目高なる起居の上へには正念工夫は溢れ建るゝ程潔よく打見ゆ增てよき唆馬の太く逞きに打騎て百万騎の敵軍をも人無き処を通る如く乗破り〱駆崩すべき顔色は天晴見事なる不断坐禅かく工夫しもて行たらんには出家は一年にて得力これあらば武士は一月出家は百日にて得力是あらば武士は三日にも利運は開かるべき者を志なく案内知り給はぬ故に生唼磨墨とも云べき大馬の背上に閑々と八石五斗の無明妄想の重荷を建〱積載ていかめしげなる貌曲してあたりを払つて乗連〱打通り給ふは近頃以て残念なる風情ならずやかく大切なる場所をば遣過して我々は仕官の身なれば坐禅などする暇隙は勤めの内は存じも寄ぬ事なるぞなど宣ふ人々は海中に在乍ら水を尋ぬる心地こそすれ四十二章経には人に二十の難あり豪貴学道難と誠なる哉王侯より庶人に至るまで栄耀富貴の人々は数限りも無事に侍れど来生の苦輪を恐れ出離の要道を尋ね求むる人々は世界を一掃して一人も見へ侍らず是定めて金口の所説に違はじとの心なるべし只富貴の上にも富貴を貪ぼりて足る事を知らず栄耀の上にも栄耀を求めて飽事もなき世の中に何の善縁ぞや幕下のみ独り富貴を見る事空華の如く栄耀を見る事夢幻に等しく常に無上の大道に賢慮を傾け予が艸廬を顧み給ふ事既に三次昔し照烈の武侯が艸廬を顧み給ひしに等し彼は三国を並さん事を図り此は三界を越ん事を求むその趣は同じといへども志しは大に異なり昔し武侯は鋤を棄命を委ねて以て三顧に答ふ老僧豈に三顧に報ずるに片言を惜まんや如何なる法理を書贈りてか幕下勇猛の精神を增長し図らずも宗門向上の大事を透過し恰悦の眉を開き給へがしと祈る許りにかなはぬ文章にて斯まで書続けたるにて侍り去ながら宗門向上の大事は中々文字語言の力にても誘引ずべき事にし侍らず然れども修行の趣向錯まり給はずば自然に大事に契当し給はでやあるべき

書き下し

老夫壯年より思ひ付侍りけるは正念工夫の勝手には武士の身の上へ程よき事は有べからず武士は明け暮れに身を懦弱に持事叶ず出仕にも附合にも如何にも嚴重なる者なれば髮結立て上下か又は袴羽織にて大小手挾み折目高なる起居の上へには正念工夫は溢れ建るゝ程潔よく打見ゆ增てよき唆馬の太く逞きに打騎て百萬騎の敵軍をも人無き處を通る如く乘破り〱驅崩すべき顏色は天晴見事なる不斷坐禪かく工夫しもて行たらんには出家は一年にて得力これあらば武士は一月出家は百日にて得力是あらば武士は三日にも利運は開かるべき者を志なく案內知り給はぬ故に生唼磨墨とも云べき大馬の背上に閑々と八石五斗の無明妄想の重荷を建〱積載ていかめしげなる貌曲してあたりを拂つて乘連〱打通り給ふは近頃以て殘念なる風情ならずやかく大切なる場所をば遣過して我々は仕官の身なれば坐禪などする暇隙は勤めの內は存じも寄ぬ事なるぞなど宣ふ人々は海中に在乍ら水を尋ぬる心地こそすれ四十二章經には人に二十の難あり豪貴學道難と誠なる哉王侯より庶人に至るまで榮耀富貴の人々は數限りも無事に侍れど來生の苦輪を恐れ出離の要道を尋ね求むる人々は世界を一掃して一人も見へ侍らず是定めて金口の所說に違はじとの心なるべし只富貴の上にも富貴を貪ぼりて足る事を知らず榮耀の上にも榮耀を求めて飽事もなき世の中に何の善緣ぞや幕下のみ獨り富貴を見る事空華の如く榮耀を見る事夢幻に等しく常に無上の大道に賢慮を傾け予が艸廬を顧み給ふ事旣に三次昔し照烈の武侯が艸廬を顧み給ひしに等し彼は三國を並さん事を圖り此は三界を越ん事を求むその趣は同じといへども志しは大に異なり昔し武侯は鋤を棄命を委ねて以て三顧に答ふ老僧豈に三顧に報ずるに片言を惜まんや如何なる法理を書贈りてか幕下勇猛の精神を增長し圖らずも宗門向上の大事を透過し恰悅の眉を開き給へがしと祈る許りにかなはぬ文章にて斯まで書續けたるにて侍り去ながら宗門向上の大事は中々文字語言の力にても誘引ずべき事にし侍らず然れども修行の趣向錯まり給はずば自然に大事に契當し給はでやあるべき

現代語訳

老夫は壮年のころから思いついていたことがある。それは、正念工夫をするのに武士の身の上ほどよいものはないということである。武士は明け暮れ身を懦弱に持つことができず、出仕にも付き合いにもいかにも厳重な者であるから、髪を結い立てて上下か、または袴・羽織で、大小の刀を手挟み、折り目正しい立ち居振る舞いの上には、正念工夫が溢れこぼれるほど潔く見える。まして立派な駿馬の太く逞しいのに打ち乗って、百万騎の敵軍をも人のいない所を通るように乗り破り、駆け崩すような顔つきは、まことに見事な不断坐禅である。このように工夫していくなら、出家が一年で得力があるなら武士は一月で、出家が百日で得力があるなら武士は三日でも、運が開けるはずなのに、志がなく案内をご存じないために、生唼・磨墨とも言うべき名馬のような大馬の背に、悠々と八石五斗の無明妄想の重荷をいくつも積み載せて、いかめしげな顔つきをつくり、辺りを払って乗り連ねて通りなさるのは、近ごろ実に残念な風情ではないか。こうした大切な場所を見過ごして、「我々は仕官の身であるから、坐禅などする暇は勤めの内は思いもよらない」などと仰る人々は、海の中にいながら水を尋ねる心地がする。『四十二章経』には「人に二十の難あり、豪貴にして道を学ぶは難し」とあるが、まことにそのとおりである。王侯から庶人に至るまで、栄耀富貴の人々は数限りなくいるが、来世の苦しみの輪を恐れ、出離の要道を尋ね求める人々は、世界を一掃しても一人も見当たらない。これはきっと金口の所説に違わないという意味であろう。ただ富貴の上にも富貴を貪って足ることを知らず、栄耀の上にも栄耀を求めて飽くこともない世の中に、何の善縁であろうか、幕下のみが独り、富貴を見ること空華のごとく、栄耀を見ること夢幻に等しく、常に無上の大道に賢慮を傾け、私の草庵をお訪ねくださったことすでに三度、昔、昭烈帝が武侯の草廬を三度訪ねなさったのに等しい。彼は三国を並び立てようと図り、こちらは三界を超えようと求める。その趣は同じでも、志は大いに異なる。昔、武侯は鋤を棄て、身命を委ねて三顧に答えた。老僧がどうして三顧に報いるのに片言を惜しもうか。どのような法理を書き贈って、幕下の勇猛の精神を増長し、思いがけず宗門向上の大事を透過して、喜びの眉を開かれるだろうかと祈るばかりに、拙い文章でここまで書き続けたのである。しかしながら、宗門向上の大事は、とても文字や言葉の力で誘い導けるものではない。けれども、修行の向け方を誤りなさらなければ、おのずから大事にかなわれないことがあろうか。

解説

白隠は壮年のころから、正念工夫には武士の身ほど良い境遇はないと考えていたと述べます。折り目正しい所作や馬上の気迫が、そのまま不断坐禅になるというのです。出家が一年かかるところを武士は一月、三日でも開けるとまで言い、仕官の身で坐禅の暇がないと言う人を、海中で水を尋ねる者にたとえます。そして三顧の礼に報いる決意を語ります。職務の姿勢そのものを修行に変える発想は、現代の働き手にも当てはまります。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

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この章句が説くこと

武士不断坐禅仕官豪貴学道難三顧向上の大事

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