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おもひで草 / 忠逆反名・守屋と馬子に見る忠逆の分かれ

守屋大連は、皇國固有の神祇を尊びて蕃神を忌嫌たりき、此は內本外末の人也、蘇我馬子は神祇を蔑にする方は更にもいはず、言卷くも可畏天皇命を弑し奉りて、却て固有の神祇を輕りき、此は外本內末の人也、かく本を外にすると本を內にすると忠逆の分際いとけさやかに分れたるを、世のえせ法師等なほあらしに言論ひて守屋の大連を忌惡つゝ、却て馬子の上の惡逆をしも知らぬ顏すなるはそもいかなる曲意ぞも、此は唯己に伴ふものを喜び己れにそむける人を惡めるにて、公ならぬ私情ぞかし、なほいはゞ守屋は國の爲に忠なるにて、法師はたゞ佛の爲に忠なる也、かくいひてもなほ其理のわきがたくば且らく此論はおきて、先近頃公私ともにかの外國の夷と睦親つゝ打しきりものかへすなるにつきて、終には彼國の邪法の我國內にもて行はれんとを、またたきに怖て汝法師等種々慷慨言すなるとか、此はあらぬ外國の敎のさらに參來て、固有の佛敎の其が爲に亡び失なんとを歎けるにて、得止べからぬ眞情なるを、且く其己がえやむべからぬ眞情をもて、守屋の外敎を忌惡みし眞情にひそかにたくらべみて、事の理非を辨へ知るべし、大連も法師も本を尊びて末を嫌ふ眞情は露ばかりも違ふ理あらじをや

新字:守屋大連は、皇国固有の神祇を尊びて蕃神を忌嫌たりき、此は内本外末の人也、蘇我馬子は神祇を蔑にする方は更にもいはず、言巻くも可畏天皇命を弑し奉りて、却て固有の神祇を軽りき、此は外本内末の人也、かく本を外にすると本を内にすると忠逆の分際いとけさやかに分れたるを、世のえせ法師等なほあらしに言論ひて守屋の大連を忌悪つゝ、却て馬子の上の悪逆をしも知らぬ顔すなるはそもいかなる曲意ぞも、此は唯己に伴ふものを喜び己れにそむける人を悪めるにて、公ならぬ私情ぞかし、なほいはゞ守屋は国の為に忠なるにて、法師はたゞ仏の為に忠なる也、かくいひてもなほ其理のわきがたくば且らく此論はおきて、先近頃公私ともにかの外国の夷と睦親つゝ打しきりものかへすなるにつきて、終には彼国の邪法の我国内にもて行はれんとを、またたきに怖て汝法師等種々慷慨言すなるとか、此はあらぬ外国の教のさらに参来て、固有の仏教の其が為に亡び失なんとを嘆けるにて、得止べからぬ真情なるを、且く其己がえやむべからぬ真情をもて、守屋の外教を忌悪みし真情にひそかにたくらべみて、事の理非を弁へ知るべし、大連も法師も本を尊びて末を嫌ふ真情は露ばかりも違ふ理あらじをや

書き下し

守屋大連は、皇國固有の神祇を尊びて蕃神を忌嫌たりき、此は內本外末の人也、蘇我馬子は神祇を蔑にする方は更にもいはず、言卷くも可畏天皇命を弑し奉りて、却て固有の神祇を輕りき、此は外本內末の人也、かく本を外にすると本を內にすると忠逆の分際いとけさやかに分れたるを、世のえせ法師等なほあらしに言論ひて守屋の大連を忌惡つゝ、却て馬子の上の惡逆をしも知らぬ顏すなるはそもいかなる曲意ぞも、此は唯己に伴ふものを喜び己れにそむける人を惡めるにて、公ならぬ私情ぞかし、なほいはゞ守屋は國の爲に忠なるにて、法師はたゞ佛の爲に忠なる也、かくいひてもなほ其理のわきがたくば且らく此論はおきて、先近頃公私ともにかの外國の夷と睦親つゝ打しきりものかへすなるにつきて、終には彼國の邪法の我國內にもて行はれんとを、またたきに怖て汝法師等種々慷慨言すなるとか、此はあらぬ外國の敎のさらに參來て、固有の佛敎の其が爲に亡び失なんとを歎けるにて、得止べからぬ眞情なるを、且く其己がえやむべからぬ眞情をもて、守屋の外敎を忌惡みし眞情にひそかにたくらべみて、事の理非を辨へ知るべし、大連も法師も本を尊びて末を嫌ふ眞情は露ばかりも違ふ理あらじをや

現代語訳

守屋大連は、皇国固有の神祇を尊んで蕃神(外国の神)を忌み嫌いました。これは内を本とし外を末とする人です。蘇我馬子は、神祇をないがしろにしたことはいうまでもなく、口にするのも畏れ多い天皇(崇峻天皇)を弑し奉って、かえって固有の神祇を軽んじました。これは外を本とし内を末とする人です。このように本を外にする者と本を内にする者とで、忠と逆の分かれ目がはっきりしているのに、世の似非法師たちは、なお荒々しく言い立てて守屋の大連を忌み嫌い、かえって馬子の悪逆は知らぬ顔をしているというのは、いったいどういう曲がった心でしょうか。これはただ、自分に同調する者を喜び、自分に背く者を憎むだけで、公のものではない私情です。さらに言えば、守屋は国のために忠であり、法師はただ仏のために忠なのです。こう言ってもなお理がわかりにくいなら、しばらくこの論はおいて、まず近ごろ、公私ともに外国の夷と親しくし、しきりに物のやり取りをしているので、ついには彼の国の邪法が国内にも行われるだろうと、まばたきの間も怖れて、あなたたち法師が種々の憤慨の言葉を述べているとか。これは、外国の教えが新たにやって来て、固有の仏教がそのために滅び失せることを嘆いているのであって、やむを得ない真情でしょう。しばらくそのやむにやまれない真情を、守屋が外教を忌み嫌った真情にひそかに引き比べてみて、事の理非を弁え知るべきです。大連も法師も、本を尊んで末を嫌う真情には、露ほども違いがないはずですから。

解説

守屋と馬子の対比で、何を本とし何を末とするかが忠逆を分けると論じています。国体論の強い歴史的な主張であり、特定の立場を肯定するものではなく、当時の論争の文脈として読む必要があります。実務への橋渡しとして読むなら、自分の都合に合う人を好み、背く人を憎む私情で評価していないか、という問いが重要です。管理職は、評価や処遇の場で、好き嫌いと組織への貢献を切り分け、同じ物差しで人を見る姿勢を保つことが求められます。

この章句が説くこと

おもひで草伴林光平忠逆守屋蘇我馬子公私

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