おもひで草 / 奥書・奥書、文久二年五月の識語
文久貳年五月ともはやし光平
書き下し
文久貳年五月ともはやし光平
現代語訳
文久二年五月、ともはやし光平(伴林光平)。
解説
本章句は『おもひで草』の最後に置かれた奥書で、文久二年五月に伴林光平が記したことを示す一行です。年は西暦で一八六二年にあたり、幕末の動きが激しくなっていく時期の記述です。内容に議論はありませんが、書き手と時期を明記することは、文章の信頼性を支える基本の作法です。現代の組織でも、報告書や記録に作成日と作成者を残すことは、後の検証や引き継ぎで大きな意味を持ちます。管理職は、決定の経緯や記録に日付と責任者を残す習慣を、チームの当たり前にしておくと安心です。
この章句が説くこと
おもひで草伴林光平奥書文久二年記録識語
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『おもひで草』・伴林光平傳・国学へ転じた伴林光平の前半生光平、姓は伴林氏、通稱は六郎、嵩齋又班鳩隱士と號す、光平は其名、攝津の人なり、文化十年(西紀一八一三年)に生る、幼にして本願寺派の僧となり、法名を大雲坊周永と稱し、河內顯證寺の支坊に居る、稍〻長じて國學に志し、竊に歸俗の念を抱く、嘗て攝津川邊郡猪名に流寓す、偶〻同宗の僧因幡氣多郡鹿野の光輪寺無蓋、伊丹に來り、其師飯田秀雄の天仁衰波學を講ずるを聽き、始めて詠歌の意を起す、是れ光平が古學に響ひたる原因なり、後無蓋に從つて因幡に赴き、贄を秀雄の門に執り、遂に佛敎を斥けて國學に歸す、秀雄の第二子年平と親交し、嘗て曰はく「予已に古道に入り、君と約して兄弟たらんとす、而して猶緇徒の名稱を用ふるは不祥なり、君請ふ、予が爲に姓名を撰べよ」、年平曰はく「聞く君が桑梓にに伴林神祉ありと、蓋し君も亦其氏子ならん、且君予より長ず、宜しく兄たるべし、則ち彼に取り此に準ひ、伴林六郎とせば如何」と、光平即ち之に從ひ、髮を蓄へ、又光平と稱す、遂に寺門に還らず、大和班鳩村に住し、國學及和歌を以て業とす、近隣の士民從學する者多し、是より先き嘉永癸丑以來外交の難あり、光平慷慨憂國の衷情隱然として其內に含積す、而して講習必ず尊王を說き、言談必ず攘夷を唱ふ、乃ち「難解機の重荷」一卷を著はし、關白鷹司輔熙に獻ず、輔熙其忠誠を憐み、竊に其書を奉じて天覽に備ふ、其卷首に光平自詠の和歌を揭ぐ、曰はく「身に積る賤が歎の荷を重み道のまゝにや行つかれなん」、其書主として外人に對し警戒を加へ、且暗弱の幕兵を用ひず、天皇親ら天下の義士を募り外患を除くの策を陳ぶ、天皇深く之を嘉納せられたりといふ、幾許もなく廟議一決し、
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『おもひで草』・以筆換桴・筆をとる文人も武士と同じ覚悟文人の筆握るは武士の桴揮るに均しく得止べからぬ時の事也、抑武士たらん者の桴握りて軍の塲に立走る時は、身を棄て命を捨て家を顧みず、さらば文人の筆握りて世中の利害得失を記さんも亦同じ心搆なるべきを、身を懷ひ命を惜みて君の爲國の爲に言はで止まじき事もえいはず、記さでおくまじき事も得書さで、ひたふるに默止しのみ居らんは、彼の軍の塲に在りながら、身を懷ひ命を惜て家を顧る隱れ者の比類とぞ言はまし、さはいへど柴の編戸のくるとあくと、ともすれば他人のうへのみ言貶しつゝ、其道彼敵のよしやあしやを論はんは、事なき時に兵器をもて扱ひて、身を棄命を捨て家を顧みぬ物狂の屬とぞ言はまし、
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『おもひで草』・伴林光平傳・天誅組に加わり獄に散る最期文久三年八月十二日大和行幸親征の盛擧を天下に布令す、光平踊躍奮起し、速に河和攝泉の壯士を募り以て鳳輦を迎へんと、乃ち出でゝ大阪に赴く、居ると數日、松本謙三郎吉村寅太郎、侍從中山忠光を奉じて義兵を河內の間に募ると聞き、俄に大阪を發し、大和五條村に至る、光平齡已に五十に及び十七里の長途一日に達す、衆士其勇壯に服す、中山忠光命じて光平を軍中の書記官とす、是より事に軍陣に從ひ、畫策する所多く、勳功群を拔けり、然るに同志藤本鐵石以下勇士戰死す、光平の吊歌に曰はく「武士の屍をさらす荒野邊に咲きこそにほへ大和なでしこ」、既にして糧仗繼がず衆寡敵せず 光平事の成らざるを慮り、書を同志深瀨繁理に託し、衷情を中山忠光に報ぜしめ、乃ち逃れて伊勢路より京師に潛行し、間を得て長門に赴き、再擧を謀らんとす、不幸にして脚疾を發し、京師に至るを得ず、終に奈良奉行の屬吏に捕へられ、京師の獄に下る、光平和歌を詠じて冤懷を消す、概ね人口に膾炙す、今二首を節錄す、其一に曰はく「拂はずば千代の操も埋もれん雪ふりかゝる園の吳竹」、其二に曰はく「畝火山そのいてましを玉だすきかけて待しは夢かあらぬか」、而して同獄の志士に對して譜記により萬葉集を講誦し、衆士をして其鬱幽を散ぜしむ、其說極めて精妙、聞く者感嘆せざるはなし、又諸士と共に往事を追想し、手づから藁筆を製し、大和義擧の概意を記し、名づけて「南山踏雲錄」一といふ、在獄數月、元治元年(西紀一八六四年)二月十八日同志の士二十四人と共に刑に死す、年五十二、明治廿四年十二月從四位を贈らる、著はす所「南山踏雲錄」の外、「おもひで草」「稻木抄」等あり、本書井上頼圀氏所藏の「おもひで草」一卷を抄錄す、
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『おもひで草』・和戰當否・和戦の議論は時を見て判断する草深き夏野の原に男鹿逐ふ獵師の荒男の、暴く武き事もて世の災を攘ふべき時に暴なるは、暴なるに似たれど實は暴なるにあらず、唯恥を知りて武く勇めるなり、露垂ふ萩の若葉の和やかなる心しらひもて、世を策り言まじき時に和やかなるは和やかなるに似たれど眞の和やかなるにあらず、心鈍く怯劣くて戰を怖るゝ也、此頃大江戸の水戶に參來れる醜夷の痛う無禮にて、漫に强言し漫に狂事すなるを、惡み腹立て速けく罸棄てんといふ人有り、一向に睦親みて、姑にても事無らんこそよけれとて言策るもの有り、罸んといふものを暴論家と名付け、親む方は自正論家といひて己が欲する方をのみよしとおもふめり、一日友どち打集ひて種々物語する序に、或仁その當否を判論いへといふに答けらく、己人數ならぬ身にて人牧の品定せんはいと畏ければ、たゞその議論の上の可否は定がたし、されど學者は時を知るを要とすといへり、故暴論も時に遇はど正論なるべく、
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『おもひで草』・君臣名義・陪臣の名義をめぐる柴野彦助の逸話世人既くより實なき唐山の書にのみ讀耽りて、皇國君臣の大義を忘れたるが故に、彼北條足利などいへる奴の忌々しき大事は起しゝなり、今は昔常陸國領しゝ殿に西山公といへる在して、太く逞しき大和魂を振興し、厚く神祇を敬ひ深く朝廷を重じつゝ、大日本史てふ大相なる御典等を著し給ひて、世に許されませる名將なりしかど、尙此名義をふとしも忘れましゝにや、將軍家臣傳など記させ給ひしは彼卿の和魂確なるに併せてはいと心得がたき一節なりけり、去し文政といふ年の頃幕府の儒士に柴野彦助といへる男あり、それが大和國の國形見にものしける時、畝火山の東北なる神武天皇の御陵に詣でゝ、其所にて作りし詩を、かへりて後幕府に奉りけるに陪臣柴彦助と書せるを見咎め給て、いたうふづくませ給ひしを、奧州白河の殿御前に候らはして、畏けれど天皇命に對ひ奉りては己等も正しく陪臣にて侍り、况て彦助がごとき者をやと、啓させしかば、やがて諾かせ給ひしとぞ、白河の殿も彦助もよく君臣の名義を知れる人也、其時の幕府は後に文恭院殿とおくりなたてまつりき、

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