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おもひで草 / 勇怯勝敗・勇怯勝敗は武器でなく気力による

神さぶる春日の野邊に、妻問ふ鹿の小男鹿は、嚴桙なせる角を頭に捧げ、石槌なす蹄を手足に具へて、嚴く雄々しき容躰、凡ての獸に立勝りて氣高くすさましげに見ゆれど、里の犬の夜聲毎に耳を聳、身を戰はしつゝ、忽に魂膽を失ふめり、犬はさる嚴く雄々しき角もなく蹄もたねど、既くより虎狼を噉し例さへ有り、さるは物の勝敗は戰具の有無によらず、專心氣の勇めると鈍きとによれるわざなればなり、近頃言譟ぐ戎夷等一向に貪情ふかくて、萬國に通商せん下情より、月を重ね年を積て、終に水城如す巨艦を作出、鈍く怯劣くて勇める心なきによりて、爲むかたなく、種々の火器を精造設て、さて其器物を利くするは、其人の鈍きによるとなるを、其人の鈍きとはおもはで、たゞ其器の精巧なるに心神をまどはすは、最心遲きとなりけり、其をもて敢て他國を却し奪むとす、さるを皇國の神民たらむ者、其巨艦大礮の精巧なるに眼を奪はれて、いひしらず怖恐つゝ、やをら其巨艦大礮を摸作て、さて其をもて渠に克むと爲るは、角なき犬の角ある鹿よりもこよなく勝るゝ事をえしらぬ鈍事なりけり、すべて他人の上を羨み他人の上を學ばんとするは、はやく其が爲に精魂を奪はれたるなり、さはいへど武く勇める荒男に嚴く利き兵器をもたせみんは、いよゝ剛かるべし、

新字:神さぶる春日の野辺に、妻問ふ鹿の小男鹿は、厳桙なせる角を頭に捧げ、石槌なす蹄を手足に具へて、厳く雄々しき容体、凡ての獣に立勝りて気高くすさましげに見ゆれど、里の犬の夜声毎に耳を聳、身を戦はしつゝ、忽に魂胆を失ふめり、犬はさる厳く雄々しき角もなく蹄もたねど、既くより虎狼を噉し例さへ有り、さるは物の勝敗は戦具の有無によらず、専心気の勇めると鈍きとによれるわざなればなり、近頃言譟ぐ戎夷等一向に貪情ふかくて、万国に通商せん下情より、月を重ね年を積て、終に水城如す巨艦を作出、鈍く怯劣くて勇める心なきによりて、為むかたなく、種々の火器を精造設て、さて其器物を利くするは、其人の鈍きによるとなるを、其人の鈍きとはおもはで、たゞ其器の精巧なるに心神をまどはすは、最心遅きとなりけり、其をもて敢て他国を却し奪むとす、さるを皇国の神民たらむ者、其巨艦大礮の精巧なるに眼を奪はれて、いひしらず怖恐つゝ、やをら其巨艦大礮を摸作て、さて其をもて渠に克むと為るは、角なき犬の角ある鹿よりもこよなく勝るゝ事をえしらぬ鈍事なりけり、すべて他人の上を羨み他人の上を学ばんとするは、はやく其が為に精魂を奪はれたるなり、さはいへど武く勇める荒男に厳く利き兵器をもたせみんは、いよゝ剛かるべし、

書き下し

神さぶる春日の野邊に、妻問ふ鹿の小男鹿は、嚴桙なせる角を頭に捧げ、石槌なす蹄を手足に具へて、嚴く雄々しき容躰、凡ての獸に立勝りて氣高くすさましげに見ゆれど、里の犬の夜聲毎に耳を聳、身を戰はしつゝ、忽に魂膽を失ふめり、犬はさる嚴く雄々しき角もなく蹄もたねど、既くより虎狼を噉し例さへ有り、さるは物の勝敗は戰具の有無によらず、專心氣の勇めると鈍きとによれるわざなればなり、近頃言譟ぐ戎夷等一向に貪情ふかくて、萬國に通商せん下情より、月を重ね年を積て、終に水城如す巨艦を作出、鈍く怯劣くて勇める心なきによりて、爲むかたなく、種々の火器を精造設て、さて其器物を利くするは、其人の鈍きによるとなるを、其人の鈍きとはおもはで、たゞ其器の精巧なるに心神をまどはすは、最心遲きとなりけり、其をもて敢て他國を却し奪むとす、さるを皇國の神民たらむ者、其巨艦大礮の精巧なるに眼を奪はれて、いひしらず怖恐つゝ、やをら其巨艦大礮を摸作て、さて其をもて渠に克むと爲るは、角なき犬の角ある鹿よりもこよなく勝るゝ事をえしらぬ鈍事なりけり、すべて他人の上を羨み他人の上を學ばんとするは、はやく其が爲に精魂を奪はれたるなり、さはいへど武く勇める荒男に嚴く利き兵器をもたせみんは、いよゝ剛かるべし、

現代語訳

春日の野辺で妻を求める雄鹿は、いかめしい角を頭に掲げ、石の槌のような蹄を手足に備え、厳しく雄々しい姿はあらゆる獣にまさって気高く恐ろしげに見えますが、里の犬が夜ごとに吠えるたびに耳を立て、身を震わせて、たちまち肝をつぶしてしまうようです。犬はそのような角も蹄も持ちませんが、昔から虎や狼を食らった例さえあります。それは、物事の勝敗が武器の有無によるのではなく、ひたすら気力が勇んでいるか鈍いかによるからです。近ごろ騒がしい西洋の異国人たちは、ひたすら貪る心が深く、万国に通商しようという下心から、月日を重ねてついに城のような巨大な船を造り出しました。(彼らは)鈍く臆病で勇む心がないので、しかたなく種々の火器を精巧に造り、その道具を鋭くするのは、人が鈍いからであるのに、その人の鈍さとは思わず、ただ道具の精巧さに心を惑わされるのは、まことに心の遅いことです。それなのに皇国の神民たる者が、その巨艦や大砲の精巧さに目を奪われて、言いようもなく恐れ、やがてそれを真似て造って彼らに勝とうとするのは、角のない犬が角のある鹿よりはるかにまさることを知らない、鈍い振る舞いです。総じて他人の様子をうらやみ、他人に学ぼうとするのは、早くもそのために精魂を奪われているのです。とはいえ、勇ましく強い男に鋭い武器を持たせてみるなら、いっそう強くなるでしょう。

解説

勝敗を分けるのは道具の優劣よりも気力であり、立派な角を持つ鹿が犬に怯えるという例えです。幕末に西洋の艦船や大砲への恐れが広がった時代の文脈で語られています。現代の組織でも、新しいツールや他社の仕組みに目を奪われ、導入すれば勝てると思い込む場面があります。管理職は、設備や制度を整える前に、チームの当事者意識と覚悟が育っているかを確かめるべきです。道具は気力のある人が使ってこそ力を発揮します。他社を真似る前に、自分たちの強みと士気を点検する姿勢が大切です。

この章句が説くこと

おもひで草伴林光平勇怯勝敗気力武器

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