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翁問答 / 改訂翁問答丁亥春

問曰、今の世間には儒書をよみおぼゆる人をば德なけれども儒者とす、其身もまた儒者の名をうけて辭せず、大なるあやまりにあらずや答曰、然り儒者の名は德にあつて藝にあらず、文學は藝なれば、もの覺よく生れ付たる人は誰もなりがたき事にあらず、たとひ文學に長じたる人にても、仁義の德なきは儒者にあらず、たゞ文學に長じたる凡夫なり、一文不通の人たりとも、仁義の德明かなる人は凡夫にあらず、文學なき儒者なり、此理は本來分明にして辨へがたきことならねども、何の時よりかあやまり來りけむ、たゞ儒書を讀ばかりを學問と思ひ、文學ある人を儒者ともてなせり、此まよひ世人の心にしみ付たるによつて、學問はものよみ坊主、又は出家などのわざにして、士の所爲にあらずなどゝとりざたまちまちなり、學問の實義、世間に明かならざる事、天下の大不幸なるべし。

新字:問曰、今の世間には儒書をよみおぼゆる人をば徳なけれども儒者とす、其身もまた儒者の名をうけて辞せず、大なるあやまりにあらずや答曰、然り儒者の名は徳にあつて芸にあらず、文学は芸なれば、もの覚よく生れ付たる人は誰もなりがたき事にあらず、たとひ文学に長じたる人にても、仁義の徳なきは儒者にあらず、たゞ文学に長じたる凡夫なり、一文不通の人たりとも、仁義の徳明かなる人は凡夫にあらず、文学なき儒者なり、此理は本来分明にして弁へがたきことならねども、何の時よりかあやまり来りけむ、たゞ儒書を読ばかりを学問と思ひ、文学ある人を儒者ともてなせり、此まよひ世人の心にしみ付たるによつて、学問はものよみ坊主、又は出家などのわざにして、士の所為にあらずなどゝとりざたまちまちなり、学問の実義、世間に明かならざる事、天下の大不幸なるべし。

書き下し

問曰、今の世間には儒書をよみおぼゆる人をば徳なけれども儒者とす、其身もまた儒者の名をうけて辞せず、大なるあやまりにあらずや答曰、然り儒者の名は徳にあつて芸にあらず、文学は芸なれば、もの覚よく生れ付たる人は誰もなりがたき事にあらず、たとひ文学に長じたる人にても、仁義の徳なきは儒者にあらず、たゞ文学に長じたる凡夫なり、一文不通の人たりとも、仁義の徳明かなる人は凡夫にあらず、文学なき儒者なり、此理は本来分明にして弁へがたきことならねども、何の時よりかあやまり来りけむ、たゞ儒書を読ばかりを学問と思ひ、文学ある人を儒者ともてなせり、此まよひ世人の心にしみ付たるによつて、学問はものよみ坊主、又は出家などのわざにして、士の所為にあらずなどゝとりざたまちまちなり、学問の実義、世間に明かならざる事、天下の大不幸なるべし。

現代語訳

問うて言う。「今の世間では、儒書を読み覚える人を、徳がなくても儒者としている。その人もまた儒者の名を受けて辞退しない。大きな誤りではないか」。答えて言う。「そのとおりである。儒者の名は徳にあって芸にあるのではない。文学は芸であるから、物覚えよく生まれついた人なら誰でもなれないことはない。たとえ文学に長じた人でも、仁義の徳のない者は儒者ではなく、ただ文学に長じた凡夫である。一文不通の人であっても、仁義の徳の明らかな人は凡夫ではなく、文学のない儒者である。この理はもともと明らかで分かりにくいことではないのに、いつの時から誤ってきたのか、ただ儒書を読むことばかりを学問と思い、文学ある人を儒者ともてはやしている。この迷いが世人の心にしみついたために、学問は物読み坊主や出家などのわざであって、武士のすべきことではないなどと取りざたがまちまちである。学問の実義が世間に明らかでないことは、天下の大きな不幸であろう」。

解説

丁亥春の改訂は、体充と師の名を外して「問曰」「答曰」の形で書かれている。内容は丙戌冬の改訂とほぼ同じ趣旨を、さらに簡潔に言い直したものである。儒者の名は徳にあって芸にあらず、文字の読める者がすなわち儒者ではない。藤樹が一年足らずのうちに同じ論点を書き直していることから、この主張をいかに重んじたかがわかる。学問の実義が誤解されれば、学問は一部の職業人のものとされ、人々の暮らしから切り離される。知識を持つことと人格を磨くことを混同しない、という基本をあらためて確かめたい。

この章句が説くこと

儒者徳文学仁義学問実義

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