翁問答 / 下卷之末之末
この聖謨の心は我身にそなはるものは、心も性も身體も毛髪も皆親の心性身體毛髪を受たるものなれば、身體髪膚も本我身體髪膚にあらず、親の身體髪膚なり、身體髮膚の主本たる心性も我心性にあらず、父母の心性なり、しかる故に我身體髮膚をそこないやぶるは、即父母の身體髪膚をそこないやぶるなり、我德性をそこないやぶるは即ち父母の德性をそこなひやぶるものなり、身體髮膚は器にしていやしく、德性は道にして貴ものなり、いやしき身體髮膚をそこないやぶるも、大惡逆大凶德なり、身體髪膚の主體たる天の尊爵の德性をそこないやぶるは、猶以大惡逆大凶徳なり、此道理をよく辨へ心によく守、不敢毀傷は孝徳を受用する始なりと敎たまふなり、此聖謨をよく體察すれば、名利の欲、習心、間思雜慮などの邪念を克すてずして我徳性をそこなふときは、即ち父母の德性をそこない破る事分明なり孝經この節の終に、無念爾祖聿修厥德といへる詩を引て結たまふも、此意を示し給はんためなり、よく々々體認あるべし。
新字:この聖謨の心は我身にそなはるものは、心も性も身体も毛髪も皆親の心性身体毛髪を受たるものなれば、身体髪膚も本我身体髪膚にあらず、親の身体髪膚なり、身体髪膚の主本たる心性も我心性にあらず、父母の心性なり、しかる故に我身体髪膚をそこないやぶるは、即父母の身体髪膚をそこないやぶるなり、我徳性をそこないやぶるは即ち父母の徳性をそこなひやぶるものなり、身体髪膚は器にしていやしく、徳性は道にして貴ものなり、いやしき身体髪膚をそこないやぶるも、大悪逆大凶徳なり、身体髪膚の主体たる天の尊爵の徳性をそこないやぶるは、猶以大悪逆大凶徳なり、此道理をよく弁へ心によく守、不敢毀傷は孝徳を受用する始なりと教たまふなり、此聖謨をよく体察すれば、名利の欲、習心、間思雑慮などの邪念を克すてずして我徳性をそこなふときは、即ち父母の徳性をそこない破る事分明なり孝経この節の終に、無念爾祖聿修厥徳といへる詩を引て結たまふも、此意を示し給はんためなり、よく々々体認あるべし。
書き下し
この聖謨の心は我身にそなはるものは、心も性も身体も毛髪も皆親の心性身体毛髪を受たるものなれば、身体髪膚も本我身体髪膚にあらず、親の身体髪膚なり、身体髪膚の主本たる心性も我心性にあらず、父母の心性なり、しかる故に我身体髪膚をそこないやぶるは、即父母の身体髪膚をそこないやぶるなり、我徳性をそこないやぶるは即ち父母の徳性をそこなひやぶるものなり、身体髪膚は器にしていやしく、徳性は道にして貴ものなり、いやしき身体髪膚をそこないやぶるも、大悪逆大凶徳なり、身体髪膚の主体たる天の尊爵の徳性をそこないやぶるは、猶以大悪逆大凶徳なり、此道理をよく弁へ心によく守、不敢毀傷は孝徳を受用する始なりと教たまふなり、此聖謨をよく体察すれば、名利の欲、習心、間思雑慮などの邪念を克すてずして我徳性をそこなふときは、即ち父母の徳性をそこない破る事分明なり孝経この節の終に、爾の祖を念ふこと無からんや、聿に厥の徳を修めよといへる詩を引て結たまふも、此意を示し給はんためなり、よく々々体認あるべし。
現代語訳
この聖人の教えの心は、自分の身に備わるものは、心も性も身体も毛髪も、みな親の心性・身体・毛髪を受けたものであるから、身体髪膚ももとは自分の身体髪膚ではなく親の身体髪膚であり、身体髪膚の主である心性も自分の心性ではなく父母の心性だということである。それゆえ自分の身体髪膚を損ない破るのは、すなわち父母の身体髪膚を損ない破ることであり、自分の徳性を損ない破るのは、すなわち父母の徳性を損ない破ることである。身体髪膚は器であって卑しく、徳性は道であって貴い。卑しい身体髪膚を損ない破るのも大悪逆・大凶徳であるが、身体髪膚の主体である天の尊い位としての徳性を損ない破るのは、なおさら大悪逆・大凶徳である。この道理をよくわきまえ心によく守り、「敢えて毀傷せざる」は孝徳を受け用いる始めであると教えられたのである。この教えをよく体察すれば、名利の欲・習心・間思雑慮などの邪念を克ち捨てずに自分の徳性を損なうときは、すなわち父母の徳性を損ない破ることが明らかである。孝経がこの節の終わりに「爾の祖を念うことなからんや、聿に厥の徳を修めよ」という詩を引いて結ばれたのも、この意を示すためである。よくよく体認するがよい。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『翁問答』上卷之本天地万物皆神明霊光の中に生化する者なる故に、よりて我心の孝徳明らかなれば、神明に通し四海に明らかなるものなり、故に我心の孝徳を明らかにして、天地万物に通ずるやうに心がけを以て、人間第一のつとめとす、しかるを以て、天地万物皆我本心孝徳の中に在る物なり、迷へる人は心のうちに計り有ると思へ共、根本は心の中に生し出たる身なり、然る故に悟りたる眼には、内外幽明有無の差別なし、五倫の道を外と見ていとひ棄て、内外幽明有無の二見を立つるは悟りに似たる迷なり、
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『翁問答』上卷之本体充問曰人間の心立種々ありて行ふ処其品多し、其内に是非混乱して何れに従ふ可し共覚へず人間一生涯の内、何れの道をか受用の業と成すべく候や。師の曰我人の身のうちに、至徳要道と云へる天下無双の霊宝あり、此宝を以て心に守り身に行ふを要とするなり、此宝を以て五倫の道を行へば、五倫の間皆和睦して怨なし、此宝を以て神明に事まつれば神明納受し給ふ、此宝を以て天下を治れば天下平になり、国を治れば国治り、家を斉へば家斉へり、身に行へば身治り、心に守れば心明かなり、おし広れば、天地の外にわたり、取納れば我心の密に隠る、誠に神明至極の霊宝なり、
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論語・為政篇子游孝を問う。子曰く、「今の孝者は、是れ能く養うと謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うこと有り。敬せずんば、何を以て別たんや。」
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『翁問答』上卷之本体充曰、さようの宝は誠に求めまほしき事に候得共、あまり広大なる道なれば、我等が分にては難及覚へ候。師の曰、それは悪しき心得にて候、広大なる故に我人の及事にて候、譬ば日月の光りは広大なるに由て、目ある程の者は普く見得るが如し、此宝も広大なる故に貴賤男女を撰ばず、幼なきも老たるも本心ある程の人は、普く守り得る道にて候、
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『翁問答』上卷之本体充問曰五等の孝の説を承り候得者、親を愛敬する計りは孝行にては無く、其徳を明らかにして夫々のすぎわいの所作を、精に入て勤るが孝行の本意にて候や。師の曰左様にて候、畢竟は人の明徳を明らかにするが、孝行の本意にて候、故に心にむざとしたる一念を起し、或は怒るまじき事に腹を立て、悦ぶましきことを悦び、願ふまじき事を願ひ、悔むまじき事を悔み、畏れまじき事を懼るゝも、皆不孝なり、一言の偽も不孝なり、況や不義無道を身に行ひ、死すべき所にて死せず、死ぬまじき処にて犬死をなし、取まじき物を貧り取る可きものを取らずして、飢寒に及などするは皆以外の大なる不孝なり、心にかけて慎み可守事なり、此道理を知り明らめて、心に守り身に行ふを儒者の学問と云ふなり、世間に学問する人は多分に候得共、此本意を悟り得る人稀にて候。
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『慎思録』巻之二三年の喪は、天下の通喪なり。蓋し人子哀痛惻怛の情、此に於て自ら已むこと能はざる所有り。而して孝子の心窮まり無し。故に先王之が為に中制を立て、之を限るに三年を以てす。期に至れば則ち天道一周し、時物皆変ず。其の天地の中に在る者、更始せざる莫し。是を以て之に象る。孝子の心、此に至るも猶ほ未だ已むこと能はず。再び之に加ふるに一年を以てする者は、隆を加ふるなり。故に之を倍して、再期にして已むべし。而して遽かに已むべからず。之に継ぐに一時を以てし、月を間てて禫す。禫して醴酒を飲み乾肉を食ふ。喪畢はる。是れ礼記三年問の説及び程子の意此くの如し。朱子の孟子の註に曰く、三年の喪は、子生まれて三年、然る後に父母の懐を免る。故に父母の喪は、必ず三年を以てするなり、と。此れ孔子の宰我に答ふるの言に本づく。蓋し孔子の宰我に答ふるに、此を以て告ぐる者は、宰我をして反りて諸を心に求め、自ら其の忍びざる所以を得しめんと欲するなり。朱子は此を以て喪の必ず三年を以てするの意を解す。此れも亦た孝子哀痛不忍の心、当に此くの如くなるべきを言ふのみ。古昔親の喪、期年に至りて已まずして、必ず三年に至る所以の者は、古人の平日習ひ知る所なり。況んや孔門の学者は、素より耳に熟する所にして、既に了々然たり。再び告ぐるを要せず。故に反りて諸を心に求めしめて、鞠育の恩に報ゆる所を以て之に告ぐること此くの如し。若し夫れ喪の必ず三年の久しきに至りて、遽かに已むべからざる所以の者は、礼記三年問、及び程子の説、詳明にして備はると謂ふべきなり。
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