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翁問答 / 下卷之末之末

體充曰、間思雜慮とはいかやうなる念慮にて御座候や。師の曰、さしたる惡念にあらざれ共、思ひて益なく、わけもなき事をくり返しくり返し思出て、天眞のわずらひとなるを間思と云なり、應事接物の際至善を分別思慮する時に、工夫專一ならず、他の念のとりまぜ起りて感通のさはりとなるを雜慮と云なり、此二はかろき病にて、却克治しがたきものなり、よくよく省察あるべし。

新字:体充曰、間思雑慮とはいかやうなる念慮にて御座候や。師の曰、さしたる悪念にあらざれ共、思ひて益なく、わけもなき事をくり返しくり返し思出て、天真のわずらひとなるを間思と云なり、応事接物の際至善を分別思慮する時に、工夫専一ならず、他の念のとりまぜ起りて感通のさはりとなるを雑慮と云なり、此二はかろき病にて、却克治しがたきものなり、よくよく省察あるべし。

書き下し

体充曰、間思雑慮とはいかやうなる念慮にて御座候や。師の曰、さしたる悪念にあらざれ共、思ひて益なく、わけもなき事をくり返しくり返し思出て、天真のわずらひとなるを間思と云なり、応事接物の際至善を分別思慮する時に、工夫専一ならず、他の念のとりまぜ起りて感通のさはりとなるを雑慮と云なり、此二はかろき病にて、却克治しがたきものなり、よくよく省察あるべし。

現代語訳

體充が言った。「間思雑慮とはどのような思いのことでございますか」。師は言った。「さほどの悪念ではないが、考えても益がなく、とりとめもないことを繰り返し繰り返し思い出して、天から授かった真の心のわずらいとなるものを間思という。物事に応じ人に接する際に、至善を分別し思慮するとき、工夫が一つに定まらず、ほかの念が入り混じって起こり、心の感応のさまたげとなるものを雑慮という。この二つは軽い病であるが、かえって克服しにくいものである。よくよく省察するがよい」。

解説

藤樹は心の病を大小に分け、ここでは悪念とまでは言えない「間思」と「雑慮」を取り上げる。間思は益のない考えを反芻すること、雑慮は判断の最中に別の念が割り込むことである。重い悪念は自覚しやすいが、こうした軽い雑念は害が小さく見えるために放置され、かえって除きにくいと藤樹は見る。対処は「省察」、すなわち念の起こるところを自分で見張ることに尽きる。仕事中に通知や心配ごとで集中が切れるのはまさに雑慮であり、くよくよと同じ失敗を思い返すのは間思である。小さな散漫こそ日々点検する価値がある。

この章句が説くこと

間思雑慮心省察集中雑念修養

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