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翁問答 / 下卷之末之末

體充曰、習染心とは如何樣なる心を申候や。師の曰、習染心とは、生下てよりこのかた、見なれ聞なれて思はず知らずにいつとなくあやかりそまりたる心なり、例へば水にて朱をとけば其色赤く綠靑をとけば、その色靑くなるが如し、本來水の色は赤も靑もなけれ共、朱と綠靑とに交りあやかりてかくの如し、その如く本來人心に好惡の事の定はなけれ共、その生そだつ國處の風俗、その家の所作々々にあやまりそまりて好惡の品定色々にかはりあり、學問藝能にも習心あり、先本心の端的をよく考定、その上にて習心を吟味してかち去べし、朱をとき赤き色に變じたる水もよくすましぬれば、朱は下え沈て水の本色あらはるゝものなり、まして無聲無臭の心の水は、其にごりすまし易かるべきにや、體驗肝要なり。

新字:体充曰、習染心とは如何様なる心を申候や。師の曰、習染心とは、生下てよりこのかた、見なれ聞なれて思はず知らずにいつとなくあやかりそまりたる心なり、例へば水にて朱をとけば其色赤く緑青をとけば、その色青くなるが如し、本来水の色は赤も青もなけれ共、朱と緑青とに交りあやかりてかくの如し、その如く本来人心に好悪の事の定はなけれ共、その生そだつ国処の風俗、その家の所作々々にあやまりそまりて好悪の品定色々にかはりあり、学問芸能にも習心あり、先本心の端的をよく考定、その上にて習心を吟味してかち去べし、朱をとき赤き色に変じたる水もよくすましぬれば、朱は下え沈て水の本色あらはるゝものなり、まして無声無臭の心の水は、其にごりすまし易かるべきにや、体験肝要なり。

書き下し

体充曰、習染心とは如何様なる心を申候や。師の曰、習染心とは、生下てよりこのかた、見なれ聞なれて思はず知らずにいつとなくあやかりそまりたる心なり、例へば水にて朱をとけば其色赤く緑青をとけば、その色青くなるが如し、本来水の色は赤も青もなけれ共、朱と緑青とに交りあやかりてかくの如し、その如く本来人心に好悪の事の定はなけれ共、その生そだつ国処の風俗、その家の所作々々にあやまりそまりて好悪の品定色々にかはりあり、学問芸能にも習心あり、先本心の端的をよく考定、その上にて習心を吟味してかち去べし、朱をとき赤き色に変じたる水もよくすましぬれば、朱は下え沈て水の本色あらはるゝものなり、まして無声無臭の心の水は、其にごりすまし易かるべきにや、体験肝要なり。

現代語訳

體充が言う。「習染心とはどのような心のことか。」師が言う。「習染心とは、生まれてからこのかた、見慣れ聞き慣れて、思わず知らずいつとなく影響を受けて染まった心である。たとえば水で朱を溶けばその色は赤く、緑青を溶けばその色は青くなるようなものである。本来水の色は赤も青もないけれども、朱と緑青とに交わって影響を受けてこのようになる。そのように本来人の心に好き嫌いの定めはないけれども、その生まれ育った国や所の風俗、その家のしきたりに誤り染まって、好き嫌いの品定めがいろいろに変わっている。学問や芸能にも習心がある。まず本心の端的をよく考え定め、そのうえで習心を吟味して克ち去るべきである。朱を溶いて赤い色に変わった水も、よく澄ませば朱は下に沈んで水の本来の色が現れるものである。まして声もなく匂いもない心の水は、その濁りを澄ませやすいであろう。体験することが肝要である。」

解説

習染心とは、育った土地の風俗や家のしきたりの中で、知らず知らず身についた好き嫌いや思い込みのことである。藤樹は水に溶いた朱や緑青にたとえ、本来無色の水が染まっても、静かに澄ませば色は沈んで本来の色が戻ると説く。「無声無臭」は『中庸』の結びの語で、形のない天の働きを指し、心の本体の比喩として用いられている。業界の常識や前職の癖も習染心の一種である。まず自分の本心を見定め、その上で身についた思い込みを一つずつ点検していけば、偏りは澄ませることができる。

この章句が説くこと

習染本心心修養中庸偏見

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