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翁問答 / 下卷之末之末

釋尊この心をさとりめされたらば、王宮を檀特靈山とし寂光土とし、天子の位を摩尼輪の位とし、袞衣玉殿をいとひて麻衣草坐とし、禮樂刑政を說法として、衆生を濟度めさるべきに、王宮をいとひ山に入、袞衣玉殿をいとひて麻衣草座をこのみめされたるは何たる心ぞや、艮背敵應不相與ときは王宮帝位何ぞ我をけがさんや、山中の靜坐何ぞ我をまさんや、王氏詩曰、曾是巢由淺、始知堯舜深、蒼生豈有物、黃屋如喬林此詩艮背敵應不相與の意味を能巧にあかしたり、堯舜の禪授湯武の放伐みな此心なり、

新字:釈尊この心をさとりめされたらば、王宮を檀特霊山とし寂光土とし、天子の位を摩尼輪の位とし、袞衣玉殿をいとひて麻衣草坐とし、礼楽刑政を説法として、衆生を済度めさるべきに、王宮をいとひ山に入、袞衣玉殿をいとひて麻衣草座をこのみめされたるは何たる心ぞや、艮背敵応不相与ときは王宮帝位何ぞ我をけがさんや、山中の静坐何ぞ我をまさんや、王氏詩曰、曽是巣由浅、始知堯舜深、蒼生豈有物、黄屋如喬林此詩艮背敵応不相与の意味を能巧にあかしたり、堯舜の禅授湯武の放伐みな此心なり、

書き下し

釈尊この心をさとりめされたらば、王宮を檀特霊山とし寂光土とし、天子の位を摩尼輪の位とし、袞衣玉殿をいとひて麻衣草坐とし、礼楽刑政を説法として、衆生を済度めさるべきに、王宮をいとひ山に入、袞衣玉殿をいとひて麻衣草座をこのみめされたるは何たる心ぞや、艮背敵応不相与ときは王宮帝位何ぞ我をけがさんや、山中の静坐何ぞ我をまさんや、王氏の詩に曰く、曽て是れ巣由浅し、始めて知る堯舜の深きを、蒼生豈物有らんや、黄屋喬林の如し、此詩艮背敵応不相与の意味を能巧にあかしたり、堯舜の禅授湯武の放伐みな此心なり、

現代語訳

釈尊がもしこの心を悟っておられたならば、王宮を檀特山や霊鷲山とし寂光土とし、天子の位を摩尼輪の位とし、華やかな衣と玉の御殿を嫌うことなく麻衣草座と同じにみなし、礼楽刑政を説法として衆生を済度なさるべきであったのに、王宮を嫌って山に入り、華やかな衣と玉の御殿を嫌って麻衣草座を好まれたのは何という心であろうか。艮背敵応して相与しない心であれば、王宮も帝位もどうして我を汚そうか、山中の静坐もどうして我を増そうか。王氏の詩に「かつては巣父・許由を浅いと思い、初めて堯舜の深さを知った。民草にとって何の物があろう、天子の黄屋も高い林のようなものだ」とある。この詩は艮背敵応して相与しない意味を巧みに明らかにしている。堯舜の禅譲、湯王・武王の放伐も、みなこの心である。

解説

藤樹は釈尊の出家を、王宮という場を捨てなければ悟れないと考えた点で偏りがあると批判する。心が物にとらわれなければ、王宮も修行の山も同じであり、政治こそが衆生を救う説法になり得たはずだというのである。引用される詩は、隠者の巣父・許由より、天下を治めながら心を汚さなかった堯舜の方が深いとうたう。堯舜の禅譲も湯武の放伐も、私心がないという一点で同じ心から出ている。環境を変えなければ心が整わないと考えがちだが、今いる場所で心を整えることこそが本当の修養である。

この章句が説くこと

無欲心仏教堯舜修養政治

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