翁問答 / 下卷之末之末
聖人の心は艮背敵應にして意必固我の私なきによつて、富貴貧賤死生禍福、その外天下の萬事大小高下淸濁美惡におゐて、毛頭好惡煉擇の情なく、只滿腔滿目一貫皇極の神理ばかりなりしかる故に位にのぼるをも財寳をたくはふるをも、欲ともせず又無欲ともせず、位をすて財寳をすつるをも無欲ともせずまた欲ともせず、只天道の神理にそむくを欲とし妄とす天道の神理にかなふを無欲とし無妄とす、神理にかなひぬれば天子の位にのぼるも財寶をたくはふるも、位をすつるも財寳をすつるも皆無欲なり無妄なり、神理にそむきぬれば天子の位をすつるも位にのぼるも、財寶を蓄ふるも皆欲なり妄なり、欲と無欲と妄と無妄とは、おこなふ事の品にはあらず、只その心根にあるものなれば、如何樣なる事は無欲なり、如何樣なる事は欲なりと、事にて指定むるは、まよひたる凡夫の心得、または異端偏僻の法なり、
新字:聖人の心は艮背敵応にして意必固我の私なきによつて、富貴貧賤死生禍福、その外天下の万事大小高下清濁美悪におゐて、毛頭好悪煉択の情なく、只満腔満目一貫皇極の神理ばかりなりしかる故に位にのぼるをも財宝をたくはふるをも、欲ともせず又無欲ともせず、位をすて財宝をすつるをも無欲ともせずまた欲ともせず、只天道の神理にそむくを欲とし妄とす天道の神理にかなふを無欲とし無妄とす、神理にかなひぬれば天子の位にのぼるも財宝をたくはふるも、位をすつるも財宝をすつるも皆無欲なり無妄なり、神理にそむきぬれば天子の位をすつるも位にのぼるも、財宝を蓄ふるも皆欲なり妄なり、欲と無欲と妄と無妄とは、おこなふ事の品にはあらず、只その心根にあるものなれば、如何様なる事は無欲なり、如何様なる事は欲なりと、事にて指定むるは、まよひたる凡夫の心得、または異端偏僻の法なり、
書き下し
聖人の心は艮背敵応にして意必固我の私なきによつて、富貴貧賤死生禍福、その外天下の万事大小高下清濁美悪におゐて、毛頭好悪煉択の情なく、只満腔満目一貫皇極の神理ばかりなりしかる故に位にのぼるをも財宝をたくはふるをも、欲ともせず又無欲ともせず、位をすて財宝をすつるをも無欲ともせずまた欲ともせず、只天道の神理にそむくを欲とし妄とす天道の神理にかなふを無欲とし無妄とす、神理にかなひぬれば天子の位にのぼるも財宝をたくはふるも、位をすつるも財宝をすつるも皆無欲なり無妄なり、神理にそむきぬれば天子の位をすつるも位にのぼるも、財宝を蓄ふるも皆欲なり妄なり、欲と無欲と妄と無妄とは、おこなふ事の品にはあらず、只その心根にあるものなれば、如何様なる事は無欲なり、如何様なる事は欲なりと、事にて指定むるは、まよひたる凡夫の心得、または異端偏僻の法なり、
現代語訳
聖人の心は艮背敵応(とらわれず相手に引きずられない)であって、意・必・固・我の私がないので、富貴・貧賤・死生・禍福、その他天下の万事の大小・高下・清濁・美悪において、少しも好き嫌いや選り好みの情がなく、ただ胸いっぱい目いっぱいに一貫した皇極の神理があるばかりである。だから位に上ることも財宝を蓄えることも、欲ともせず無欲ともせず、位を捨て財宝を捨てることも、無欲ともせず欲ともしない。ただ天道の神理に背くのを欲とし妄とし、天道の神理にかなうのを無欲とし無妄とする。神理にかなっていれば、天子の位に上るのも財宝を蓄えるのも、位を捨てるのも財宝を捨てるのも、みな無欲であり無妄である。神理に背いていれば、天子の位を捨てるのも位に上るのも、財宝を蓄えるのも、みな欲であり妄である。欲と無欲、妄と無妄とは、行う事の種類にあるのではなく、ただその心根にあるものである。だから、これこれの事は無欲である、これこれの事は欲であると、事によって指し定めるのは、迷った凡夫の心得か、異端の偏った法である。
解説
この章句が説くこと
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『翁問答』下卷之末之末おこなふ所の事はともあれかくもあれ、その心に欲なく潔静精微の神理明浄にして其事時中の天理にかなふを、無欲とし無妄とすたとひをこなふ所義理にあたりても、その心に欲あれば無欲にあらず、まして心に欲あるうへにその事義理にあたらざるは大欲と云ふものなりされば心に欲なく潔静精微の神理明浄にしてその事の天理にあたりぬれば、帝堯の天下を舜にゆづりたまふも、帝舜の天下をうけたもふも、また湯王の桀を放たまふも、武王の紂を伐て天下を救たまふも、皆無欲の徳行なり、もしまた堯舜湯武に欲心有つてかくおこなひたまはゞ、皆貪欲の妄行也、天下の授受取予は至極広大なる事なり、其外万事みなかくのごとし、一銭を人にあたへ一銭を人にうくるも、此心もちは、おなじことなり、
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『翁問答』下卷之末之末儒者の心法は艮背敵応不相与の聖心を鏡とする故に、天子より下庶人にいたるまで、分々相応の本分すぎはひをいとなみ、財宝をたくはふるを欲とはいはず、一銭にても義理にそむきてとりたくはへ、また与ふべきものをおしみて与へざるを欲とす、此欲をすつることはやすき事にて世の中の住居のさはりとはならず、学問せぬ人も生付廉直なるものは、不義のたくはへをばいやしみきらふものなり、まして心学に志ある人をや、利欲に財欲と形気の欲とのすこしかはりあり財欲は金銀財宝沢山にほしきと思ひ、分もなき高知行をむさぶること也、此欲はすてやすきものなり、形気の欲は酒色ふけりおぼれ、又は形の便利を求すごす事也、此欲はすてがたきものなり、総して欲をすつる工夫、我心の一念おこる所にて省察してかち去るが簡要なり、此工夫を慎独と云なり、よくよく体認あるべし
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『翁問答』上卷之本師の曰、これにも心迹の差別あり、迹ばかりを見ては疑も尤にて候。心にて見候へば不審はすこしもなく候、聖賢の心は富貴を願はず貧賤をいとはず、生を好まず死を悪まず、福を求めず禍を避けず、唯身を立て道を行ひたまふ計りにて、凡夫の願ひは毛頭なければ、自ら願ひの儘にて、凡夫の願ひを思ひの儘に求め得たるよりは、一くらゐまさりたる心のたのしみ有、其上凡夫の願ふ富貴は小富貴と云てちいさき富貴也、小富貴の外に至富貴とて広大無類なる富貴あり、此大富貴は凡夫の目には見へぬ故に求め願ふ事なし、聖賢は此の大富貴を思ひの儘に得たまふによつて小富貴をば忘れたまひて求め願ひたまはねば、疏食飲水箪瓢陋巷の貧賤に居たまひても、無上の真楽つねに泰然とありて、凡夫の小富貴を得たる楽みと同し、口にも語るべき事にあらず、
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『翁問答』下卷之末之末体充曰、真実の儒道を行には名利の欲をすつるが第一の工夫なりと被仰る、尤欲心はきたなきものなれば、すてたき事にて候へども、欲をすてゝは世の中のすまひ成申まじきと存候、いかゞ。師の曰、それは仏氏偏僻の教に、釈尊の天子の位をすて龐居士が、家財をすてしごときを無欲なりと云を聞ならひてあやまる疑なり、儒道にはその様にすじもなくて位をすて財宝をすつるをば気ちがひの欲なきにたとへて大にきらへり、位にあるを欲とし位をすつるを無欲とし、財宝をたくはふるを欲とし財宝をすつるを無欲なりと思ふは、いまだ明徳くらくして位をこのみ財宝の貪心根のこりて、外物に凝滞して便利煉択の私ある故なり、
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言志四録・言志後録 第百四十三条 聖人の無為無欲聖人は無為なり。固より徳を以て感ぜしむ。然れども其の為すべき所は則ち之を為す。聖人は無欲なり。固より私心無し。然れども其の欲すべき所は則ち之を欲す。孟子曰く、「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲すること無し。此くの如きのみ」と。
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『翁問答』下卷之末之末名の欲をすつるには、先よせひ意虚夸の念をかちさるべし、かくのごとく吟味体認して名の欲をすつることは、根本天理の真楽をもとめ、気随をわすれ作法を正くせんためなれば、心学に志あるものは、名をすつるほど気随のすごりなく、作法よくなりて、狂風にもいらず市井の風にも入らず、君子中行の風に入て君子のほまれ求めずして至ものなり、名利の欲習染る心、間思雑慮を一念の微に省察して、独を慎てのぞきする事、第一の要法なり。
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