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翁問答 / 下卷之末之末

その孝德の十分に明にして、そのおこなひたまふ事の道理中庸にかなひたるところをほめたまふなり、此意をしらざるにや、泰伯の孝德もなく中庸にかなふべき義理もなくて、かみをそりて我剃髮は泰伯の断髪とおなじことなりなど云る人あり、これは舟に刻て劍をもとむるの愚痴にあらずば、烏を鷺と云まとはす侫人なるべし、心に仁義の守なく、また何のもとむるすじもなくて、かみをそり身を文にして走まはらば、氣ちがひと云ものなり、心に利欲ふかく知行をむさぶらんため、座敷かみになをらんために、かみをそりて中庸の神理にそむくものをば、欲ふかき小人とやいはん、まいす坊主とやいひなまし、

新字:その孝徳の十分に明にして、そのおこなひたまふ事の道理中庸にかなひたるところをほめたまふなり、此意をしらざるにや、泰伯の孝徳もなく中庸にかなふべき義理もなくて、かみをそりて我剃髪は泰伯の断髪とおなじことなりなど云る人あり、これは舟に刻て剣をもとむるの愚痴にあらずば、烏を鷺と云まとはす侫人なるべし、心に仁義の守なく、また何のもとむるすじもなくて、かみをそり身を文にして走まはらば、気ちがひと云ものなり、心に利欲ふかく知行をむさぶらんため、座敷かみになをらんために、かみをそりて中庸の神理にそむくものをば、欲ふかき小人とやいはん、まいす坊主とやいひなまし、

書き下し

その孝徳の十分に明にして、そのおこなひたまふ事の道理中庸にかなひたるところをほめたまふなり、此意をしらざるにや、泰伯の孝徳もなく中庸にかなふべき義理もなくて、かみをそりて我剃髪は泰伯の断髪とおなじことなりなど云る人あり、これは舟に刻て剣をもとむるの愚痴にあらずば、烏を鷺と云まとはす侫人なるべし、心に仁義の守なく、また何のもとむるすじもなくて、かみをそり身を文にして走まはらば、気ちがひと云ものなり、心に利欲ふかく知行をむさぶらんため、座敷かみになをらんために、かみをそりて中庸の神理にそむくものをば、欲ふかき小人とやいはん、まいす坊主とやいひなまし、

現代語訳

その孝徳が十分に明らかで、その行いの道理が中庸にかなったところを褒められたのである。この意味を知らないのか、泰伯のような孝徳もなく、中庸にかなうべき義理もないのに、髪を剃って「私の剃髪は泰伯の断髪と同じことだ」などと言う人がある。これは舟に刻んで剣を求める愚かさでなければ、烏を鷺と言いくるめる佞人であろう。心に仁義の守りがなく、また何の求める筋もないのに、髪を剃り体に入れ墨をして走り回れば、気違いというものである。心に利欲が深く、知行を貪ろうとして、座敷で上座に直ろうとして、髪を剃って中庸の神理に背く者は、欲深い小人と言おうか、売僧坊主と言おうか。

解説

泰伯の断髪が称えられたのは、孝徳が明らかで行いが中庸にかなっていたからだと藤樹は言う。その中身なしに形だけを持ち出して自分を正当化する者を、「舟に刻みて剣を求む」の愚か者か、烏を鷺と言いくるめる佞人だと手厳しく批判する。さらに、禄を得たり上座に座ったりするために剃髪する者を欲深き小人、売僧坊主とまで呼ぶ。立派な先例を引いて自分の利益を飾るのは今もよくある手口である。先例を持ち出すときは、その中身まで同じかを自らに問わなければならない。

この章句が説くこと

中庸私欲名利佞人形小人

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