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翁問答 / 下卷之末

體充曰、洪氏曰、權者聖人之大用、未能立而言權、猶人未能立而欲行、鮮不仆矣、此格言にて見申候へば、先生の敎等をこゆる弊あるべしと存候いかゞ。師の曰、此格言は權を工夫のめあてとすることをいましむるにあらず、權の理味を心得ちがへて道のそこなひとなる人をいましめたる主意なり、權の理味を心得そこなひて道のさはりとなる人、二しなあり、一には狂見に入たる人、權道の法におちず迹になづまざる面影を見付、中庸精微の矩をわきまへず、無欲の心にまかせてあとになずまず、法におぢざるを至極の道として、神道の權にそむけり、禪を學ぶ人此心地にまよへりこれは權の體段徹頭徹尾ことごとく中庸精微の神理にして法におぢず迹になづまざるを權の景象なることをさとらず、影を認て形とする誤なり、

新字:体充曰、洪氏曰、権者聖人之大用、未能立而言権、猶人未能立而欲行、鮮不仆矣、此格言にて見申候へば、先生の教等をこゆる弊あるべしと存候いかゞ。師の曰、此格言は権を工夫のめあてとすることをいましむるにあらず、権の理味を心得ちがへて道のそこなひとなる人をいましめたる主意なり、権の理味を心得そこなひて道のさはりとなる人、二しなあり、一には狂見に入たる人、権道の法におちず迹になづまざる面影を見付、中庸精微の矩をわきまへず、無欲の心にまかせてあとになずまず、法におぢざるを至極の道として、神道の権にそむけり、禅を学ぶ人此心地にまよへりこれは権の体段徹頭徹尾ことごとく中庸精微の神理にして法におぢず迹になづまざるを権の景象なることをさとらず、影を認て形とする誤なり、

書き下し

体充曰、洪氏曰く、権は聖人の大用なり、未だ立つこと能はずして権を言ふは、猶ほ人の未だ立つこと能はずして行かんと欲するがごとし、仆れざること鮮し、此格言にて見申候へば、先生の教等をこゆる弊あるべしと存候いかゞ。師の曰、此格言は権を工夫のめあてとすることをいましむるにあらず、権の理味を心得ちがへて道のそこなひとなる人をいましめたる主意なり、権の理味を心得そこなひて道のさはりとなる人、二しなあり、一には狂見に入たる人、権道の法におちず迹になづまざる面影を見付、中庸精微の矩をわきまへず、無欲の心にまかせてあとになずまず、法におぢざるを至極の道として、神道の権にそむけり、禅を学ぶ人此心地にまよへりこれは権の体段徹頭徹尾ことごとく中庸精微の神理にして法におぢず迹になづまざるを権の景象なることをさとらず、影を認て形とする誤なり、

現代語訳

體充が言う。「洪氏は「権は聖人の大いなる働きである。まだ立つこともできないのに権を語るのは、まだ立てない人が歩こうとするようなもので、倒れない者は少ない」と言う。この格言から見ると、先生の教えは段階を飛び越える弊害があるのではないかと思うが、どうか。」師が言う。「この格言は、権を工夫の目当てにすることを戒めているのではない。権の意味を取り違えて道を損なう人を戒めた主旨である。権の意味を取り違えて道の妨げとなる人には二種類ある。一つは狂見に入った人である。権道が法に陥らず跡にこだわらないという表面を見て、中庸精微の規矩を弁えず、無欲の心に任せて跡にこだわらず法を恐れないことを至極の道として、かえって神道である権に背いている。禅を学ぶ人がこの境地に迷っている。これは、権の本体が初めから終わりまで中庸精微の神理であって、法に陥らず跡にこだわらないのは権の現れにすぎないことを悟らず、影を形と思い込む誤りである。」

解説

朱子が『論語集注』に引いた洪興祖の言葉をめぐる問答である。藤樹は格言そのものは認めつつ、それが戒めているのは権を誤解する者だと読み替える。一つ目の誤解は、型にとらわれない自由さを権の本質と思い込み、規矩を軽んじる「狂見」である。藤樹は、自由に見える振る舞いは中庸の理にかなった結果として現れる影であって、影だけをまねれば形を失うと指摘する。前例にとらわれない発想は大切だが、それは原理を深く理解した上で生まれるものだ。型破りは型を知る者にしかできないという言葉と同じ教えである。

この章句が説くこと

権中庸狂者禅規矩本質

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