墨子 / 大取
天之愛人也,薄於聖人之愛人也;其利人也,厚於聖人之利人也。大人之愛小人也,薄於小人之愛大人也;其利小人也,厚於小人之利大人也。以臧為其親也而愛之,非愛其親也;以臧為其親也而利之,非利其親也。以樂為利其子,而為其子欲之,愛其子也;以樂為利其子,而為其子求之,非利其子也。於所體之中而權輕重,之謂權。權非為是也,非非為非也。權正也。斷指以存蚤利之中取大,害之中取小也。害之中取小,也,非取害也,取利也。其所取者,人之所執也。遇盜人,而斷指以免身,利也;其遇盜人,害也。
新字:天之愛人也,薄於聖人之愛人也;其利人也,厚於聖人之利人也。大人之愛小人也,薄於小人之愛大人也;其利小人也,厚於小人之利大人也。以臧為其親也而愛之,非愛其親也;以臧為其親也而利之,非利其親也。以楽為利其子,而為其子欲之,愛其子也;以楽為利其子,而為其子求之,非利其子也。於所体之中而権軽重,之謂権。権非為是也,非非為非也。権正也。断指以存蚤利之中取大,害之中取小也。害之中取小,也,非取害也,取利也。其所取者,人之所執也。遇盗人,而断指以免身,利也;其遇盗人,害也。
書き下し
天の人を愛するや、聖人の人を愛するよりも薄し。其の人を利するや、聖人の人を利するよりも厚し。大人の小人を愛するや、小人の大人を愛するよりも薄し。其の小人を利するや、小人の大人を利するよりも厚し。臧を以て其の親と為して之を愛するは、其の親を愛するに非ざるなり。臧を以て其の親と為して之を利するは、其の親を利するに非ざるなり。樂を以て其の子を利すと為して、其の子の為に之を欲するは、其の子を愛するなり。樂を以て其の子を利すと為して、其の子の為に之を求むるは、其の子を利するに非ざるなり。體する所の中に於いて輕重を權る、之を權と謂う。權は是を為すに非ざるなり、非は非を為すに非ざるなり。權は正なり。指を斷ちて以て蚤を存す。利の中に大を取り、害の中に小を取るなり。害の中に小を取るは、害を取るに非ざるなり、利を取るなり。其の取る所の者は、人の執る所なり。盜人に遇いて、指を斷ちて以て身を免るるは、利なり。其の盜人に遇うは、害なり。
現代語訳
天が人を愛するのは、聖人が人を愛するより薄い。しかし天が人を利するのは、聖人が人を利するより厚い。大人が小人を愛するのは、小人が大人を愛するより薄い。しかし大人が小人を利するのは、小人が大人を利するより厚い。臧をその親だと思って愛しても、それは親を愛したことにならない。臧をその親だと思って利しても、それは親を利したことにならない。音楽が子のためになると思って、子のためにそれを望むのは、子を愛することである。音楽が子のためになると思って、子のためにそれを求めるのは、子を利することにならない。関わっているものの中で軽重を量ること、これを権という。権は是を是とすることではなく、非を非とすることでもない。権とは正すことである。指を断って身を全うする。利の中では大きいほうを取り、害の中では小さいほうを取る。害の中で小さいほうを取るのは、害を取るのではなく、利を取るのである。取ったものは、人が握るものである。盗人に出会って、指を断って身を免れるのは利である。盗人に出会ったこと自体は害である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『翁問答』下卷之末体充曰、子曰く、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず、与に道に適くべし、未だ与に立つべからず、与に立つべし、未だ与に権るべからず、此聖謨を以て見れば、権は初学の取さたすべきことにあらずと存候はいかゞ。師の曰、此聖謨は学者の面々のいたる所の位をよしと画して上達の志あつからざるをいましめ引たてたまふ主意なり、初学の者権を取さたすべからずとのたまふにはあらず、可与共の学は、即ち此権の道をまなぶ学なり、可与適の道も、即ち此権の道なり、可与立の道も即ち此権の道なり権の外に道なし、道の外に権なし、権の外に学なく学の外に権なし、但その受用に生熟、大小、精粗の差別あるのみ、しかる故に此聖謨の主意は、工夫成就の次第をあかして至極無上の神道を指出して、学者の準的を示たまふものなり、孟子性善を道ひ、言へば必ず堯舜を称す、公明儀曰く、文王は我が師なり、周公豈我を欺かんや、かくの如きの賢範をよく体験して明に弁知べし、若この準的をしらざるときは心学の徒なりとも、欣真落法の地に執滞して、非礼の礼多あるべし。
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『翁問答』下卷之末大賢以下の人は気質の累ありて明徳くらく、権をおこなふこと能はざる故に、聖人天下のために礼法を定たまふ、此礼法もすなはち権の道なれ共、すでに法に定ぬれば迹ありて変通の活溌なきによつて、権といはずして礼法といふなり、此意をしらず徒に礼法の迹を真実の道なりと心得て、聖人立法の本意権道の妙をさとらずして、礼法になずみて専にとりおこなひ、時中の神理にそむくをば、非礼の礼となづけて君子のせざる所なり、此非礼の礼をも真実の礼なりと迷ひたる人、聖賢の行迹礼法にちがひたるを見てうたがひをなし、礼と権は各別なりなど、得心するなり、此権の字の精義をしらざれば、心学に志ありて致知力行をはげますと云とも、必欣真落法の地にまよふべし、大学の能慮は此権を詳に分別する工夫なり、能得は此権を得心受用するものなり、法ありて法にあらず、在ゆるところなくして在ざる所なく、定ところなくして定らざる処なき権字の理味を、よくよく体認すべし。
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『弁名』經權権。漢儒は経を以て対して言ふ。程子之を非とす、是なり。仁斎先生は孟子に拠りて当に礼を以て権に対すべしと謂ふ、亦た是なり。是れ漢儒は経を解して常と為す、故に誤るのみ。経とは国家の制度を立つる大綱領なり。夫れ経にして反すべくんば、豈に以て経と為すべけんや。礼は節目甚だ繁し、故に其の末節に至りては、則ち変じて宜しきに従ふのみ。仁斎先生乃ち曰く、「礼は時に随ひて損益すべし」と。殊に知らず、孔子の所謂損益とは、聖人礼を制する時の事なるを。且つ所謂権は、礼にも亦た之有り。喪服四制に曰く、「喪に四制有り、変じて宜しきに従ふは、之を四時に取るなり。恩有り理有り節有り権有るは、之を人情に取るなり」と。後世の儒者は四書に汨没す、故に種種の贅言有るのみ。
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『翁問答』下卷之末体充曰、淳于髡曰く、男女授受するに親らせざるは礼か、孟子曰く、礼なり、曰く、嫂溺るれば則ち之を援くるに手を以てせんか、曰く、嫂溺るるを援けざるは是れ豺狼なり、男女授受するに親らせざるは礼なり、嫂溺るるときに之を援くるに手を以てするは権なり、曰く、今天下溺る、夫子の援けざるは何ぞや、曰く、天下溺るれば之を援くるに道を以てし、嫂溺るれば之を援くるに手を以てす、子は手もて天下を援けんと欲するか、孟子の此章を考見れば、経と権と差別あるべきと存候はいかゞ。師の曰、漢儒の経に反して道に合ふを権と為すの説は、此の章を見誤たる者なり此章の礼は礼法を指ていへり、礼法は天下万民日用通行のために平生急務の事ばかりを定たまふものなれば、非常の変事には礼法なし、道は大虚に充満して身をはなれざるものなれば、もとより平常日用の道も礼法なり、また非常の変に処する義も道なり権は此道の総名なる故に、礼法も本権なれ共事の模様定りて迹あるによつて権と名けがたき故に法と名づけたり、
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『講孟余話』告子下 首章然れども本文立言の意は、礼と云ふは歯決なきを問はず、尽心上、「放飯流歠して、歯決なきを問ふ、是れを之れ務めを知らずと謂ふ」。又曲礼に「濡肉は歯決し、乾肉は歯決せず」純の倹に従ふ、論語子罕、「麻冕は礼なり。今や純は倹なり、吾は衆に従はん」の類なること固よりなり。唯語病あるのみ。但し親迎の義に至りては追考を要すべし。礼中にも軽重あり、食色皆各軽重あり、物皆然り。是を以て一本の義を喩るべし。滕文公上末章、「天の物を生ずるや、之をして一本ならしむ、而るに夷子は二本なる故なり」。君臣父子の五倫も、遇ふ所随ふ所に依りて軽重あり。此れの軽き者を以て彼の重き者に比せば、彼固より重し。彼の軽き者を以て此れの重き者に比せば、此れ固より重し。故に軽き者常に軽きことなし、時有りて重し。重き者常に重きことなし、時有りて軽し。是れ亦権の義、時中の義なり。合せ考ふべし。
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『翁問答』下卷之末体充問曰、常の礼法にちがいて道にかなふは、権の道なりと承及候、左様にておはしまし候や。師の曰、権は聖人の妙用神道の総名なり、大にしては堯舜の禅授、小にしては周公の吐握、孔子の恂々便々、一言一動の微に至まで皆権の道なり、しかるを経に反して道にかなふを権といへるは大なる誤なり、程子すでにその誤を正しめされたり、権ははかりのおもりなり、神道を権となづくる名義は、聖人は天と同体、至誠無息、物に凝滞せず、跡によらず、独往独来活溌々地にして、おこなひたまふ所ことごとく天地の神理に適当恰好なる景象秤のおもりの定ところなく、往来滞ずして物の軽重をはかりて、適当恰好なるに似たる意あるによつて象をとれり

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