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翁問答 / 下卷之末

體充曰、左樣に候はゞ、中行にいたらざるうちは、儒門の學者も佛家の學者もおなじ事にて候や。師の曰、その心の位意馬の奔走は、初學の間はおなじけれ共、その修行の道は眞妄各別なり、たとへば山に登るが如し、儒門の學者の力行する道は、峯までよく通じぬる定たる道をのぼるが如し、平常不易の道なる故に是を天眞と云なり、佛家の學者の修行する道は、山八分にきれとありて、峯頭まで通ぜざるすじの登る可き道なき所を、木かやをわけて登るが如し、嶮岨にして道なく人間のとをらざる所なる故にこれを妄行と云なり、初學の間心の位のちがはざるは、山をのぼる道のほど同じければ、その高下のろくなる如し、しかれ共あし下の道、眞にしてのぼりやすきと、妄にしてのぼりがたきとは各別なり、よくよく體認あるべし。

新字:体充曰、左様に候はゞ、中行にいたらざるうちは、儒門の学者も仏家の学者もおなじ事にて候や。師の曰、その心の位意馬の奔走は、初学の間はおなじけれ共、その修行の道は真妄各別なり、たとへば山に登るが如し、儒門の学者の力行する道は、峯までよく通じぬる定たる道をのぼるが如し、平常不易の道なる故に是を天真と云なり、仏家の学者の修行する道は、山八分にきれとありて、峯頭まで通ぜざるすじの登る可き道なき所を、木かやをわけて登るが如し、嶮岨にして道なく人間のとをらざる所なる故にこれを妄行と云なり、初学の間心の位のちがはざるは、山をのぼる道のほど同じければ、その高下のろくなる如し、しかれ共あし下の道、真にしてのぼりやすきと、妄にしてのぼりがたきとは各別なり、よくよく体認あるべし。

書き下し

体充曰、左様に候はゞ、中行にいたらざるうちは、儒門の学者も仏家の学者もおなじ事にて候や。師の曰、その心の位意馬の奔走は、初学の間はおなじけれ共、その修行の道は真妄各別なり、たとへば山に登るが如し、儒門の学者の力行する道は、峯までよく通じぬる定たる道をのぼるが如し、平常不易の道なる故に是を天真と云なり、仏家の学者の修行する道は、山八分にきれとありて、峯頭まで通ぜざるすじの登る可き道なき所を、木かやをわけて登るが如し、嶮岨にして道なく人間のとをらざる所なる故にこれを妄行と云なり、初学の間心の位のちがはざるは、山をのぼる道のほど同じければ、その高下のろくなる如し、しかれ共あし下の道、真にしてのぼりやすきと、妄にしてのぼりがたきとは各別なり、よくよく体認あるべし。

現代語訳

體充が言った。そうであるならば、中行に至らないうちは、儒門の学者も仏家の学者も同じことなのか。師は言った。その心の位、心が奔馬のように走り回ることは、初学のうちは同じであるが、その修行の道は真と妄とで別である。たとえば山に登るようなものである。儒門の学者が力行する道は、峰までよく通じた定まった道を登るようなもので、平常不易の道であるからこれを天真という。仏家の学者が修行する道は、山の八分目で切れていて峰まで通じていない筋の、登るべき道のない所を、木や萱をかき分けて登るようなものである。険しくて道がなく、人の通らない所であるからこれを妄行という。初学のうちに心の位が違わないのは、山を登る道の途中の高さが同じであれば、その高さが平らに並ぶのと同じである。しかしながら足もとの道が、真であって登りやすいのと、妄であって登りにくいのとは別である。よくよく体認すべきである。

解説

前の段の山登りの比喩を受け、藤樹は道そのものの違いを説く。初学のうちは儒者も仏者も心の位は変わらない。違うのは、頂上まで通じた道を歩むか、八分目で途切れた道なき道を分け入るかである。儒の道を「平常不易」と呼ぶのは、日常の人倫の中で誰もが歩める道だという意味であろう。途中の高さが同じでも、足もとの道が正しいかどうかで行き着く先が変わる。キャリアや学習でも、今の到達点の高さより、その道が目標まで通じているかを確かめることが大切である。

この章句が説くこと

修行天真妄行平常学問道

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