翁問答 / 下卷之末
體充曰、元神元氣通一不二の端的にて候はゞ、狂者もすでに無礙淸淨の位に至たる心なれば元神の端的をもさとりめさるべき事と存候いかゞ。師の曰、聖人は生知安行天と同體なる故に、自づから元神元氣一貫の妙用活潑々地なり、大賢より下の人は、學問修行をもて悟をひらくものなれば、その見性成道の段々階級のごとく次第あるによつて、中行の悟ところをば、狂者はいまださとり得ず、狂者のさとる所をば狷者はいまだ悟得ざるとなり、たとへば山へ登るが如し、ふもとより峯頭まで皆山の一體なれ共、其巓へのぼり得ざれば、峯頭の草木を明細に見分ことあたはず、その如く元神元氣皆おなじく一心なれども、兼山の頂上に止得せざれば、元神の靈覺をさとり得ことあたはず候。
新字:体充曰、元神元気通一不二の端的にて候はゞ、狂者もすでに無礙清浄の位に至たる心なれば元神の端的をもさとりめさるべき事と存候いかゞ。師の曰、聖人は生知安行天と同体なる故に、自づから元神元気一貫の妙用活溌々地なり、大賢より下の人は、学問修行をもて悟をひらくものなれば、その見性成道の段々階級のごとく次第あるによつて、中行の悟ところをば、狂者はいまださとり得ず、狂者のさとる所をば狷者はいまだ悟得ざるとなり、たとへば山へ登るが如し、ふもとより峯頭まで皆山の一体なれ共、其巓へのぼり得ざれば、峯頭の草木を明細に見分ことあたはず、その如く元神元気皆おなじく一心なれども、兼山の頂上に止得せざれば、元神の霊覚をさとり得ことあたはず候。
書き下し
体充曰、元神元気通一不二の端的にて候はゞ、狂者もすでに無礙清浄の位に至たる心なれば元神の端的をもさとりめさるべき事と存候いかゞ。師の曰、聖人は生知安行天と同体なる故に、自づから元神元気一貫の妙用活溌々地なり、大賢より下の人は、学問修行をもて悟をひらくものなれば、その見性成道の段々階級のごとく次第あるによつて、中行の悟ところをば、狂者はいまださとり得ず、狂者のさとる所をば狷者はいまだ悟得ざるとなり、たとへば山へ登るが如し、ふもとより峯頭まで皆山の一体なれ共、其巓へのぼり得ざれば、峯頭の草木を明細に見分ことあたはず、その如く元神元気皆おなじく一心なれども、兼山の頂上に止得せざれば、元神の霊覚をさとり得ことあたはず候。
現代語訳
體充が言った。元神と元気が通じて一つで二つでない要所であるならば、狂者もすでに無礙清浄の位に至った心なのだから、元神の要所をも悟られるはずだと思うが、いかがか。師は言った。聖人は生まれながらに知り安んじて行い、天と同体であるから、おのずから元神元気一貫の妙用が生き生きとしている。大賢より下の人は、学問修行によって悟りを開くものであるから、その見性成道は段々・階級のように順序がある。それで中行の悟るところを狂者はまだ悟り得ず、狂者の悟るところを狷者はまだ悟り得ないのである。たとえば山へ登るようなものである。ふもとから峰の頂まですべて山の一体であるけれども、その頂へ登り得なければ、峰の頂の草木を細かく見分けることはできない。そのように元神と元気はみな同じ一つの心であるけれども、兼山(艮)の頂上にとどまり得なければ、元神の霊覚を悟り得ることはできない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『翁問答』下卷之末狂の字に眼をつけて観察すれば、無欲の妄行の義いはずして分明なり、つらつら体察するに、仏者は元気の霊覚を悟りて至極と思、元神の霊覚をさとらず、唯無欲無為自然を心法として、元気の霊覚に任ずる故に、其心粗濶にしてその行跡狂妄なり、儒者は理を窮め性を尽し、命に至を心法とすれば、無欲清浄無為自然無礙のことは云におよばず、専元神の霊覚に率ふ故に、其心精妙にしてその行跡中正なり、儒者道を悟れば則ち其の心愈細かく、禅家道を悟れば則ち其の心愈粗しと、楽軒の発明めされたるもこの意なり、
-
『翁問答』下卷之末体充曰、狂者と申はいかやうなる人にて候や。師の曰、狂者は道体の広大高明なる所をば悟といへども、未だ精微中庸の密に悟入せざるによりて、見性成道の心術粗糲迂濶にして、修行異相に逸狂なるものなり、大唐にては許由、巣父、牧皮、曽哲子、桑戸、荘子、天竺にては釈迦、達磨など勝れたる狂者なり、人の生付しなかはるによりて、道学して見性成道する位に上中下の三段あり、中行は聖人の下亜聖の大賢なり、これは三段のうちにて第一段上の位なり、狂者は中行の下第二段中の位なり、第三段下の位は狷者也学問しても此三段の位にいたらざるは俗学といふものなり、よくよく体認すべし。
-
『翁問答』下卷之末体充曰、見性成道の心の位を観察すること中々凡夫のおよびがたき所なり、いか様なる学問にてわきまへ知べく候や。師の曰、目にて物を見るに、高ところより見下すことは見易して分明なりひきゝ所より上を見あぐることは見えかたくして分明ならざるものなり心にて心を観察するもかくの如し、聖賢の心より狂者、狷者、凡夫の心を見たまふは、日月の万物をてらしたまふ如くなり、狂者、狷者、凡夫の心にて聖賢の心をうたがひ見るは、谷にとぼせるたいまつにて峯を見るに異ならず、しかる故に真儒の心学の外の学問にては、中々弁へ知ことなるべからず、唯真儒の心学をよく切磋琢磨して、大覚明悟の位に至りぬれば、荘子、釈迦、達磨などの心を観察すること、白昼に黒白を分つ如くなるべし、荘仏の学問をきはめたる分にては、聖賢の心を弁へしること、富士のふもとよりその嶺を仰見るが如くなり、
-
『翁問答』下卷之末此無礙清浄位無心無念の本仏は、不思議の体にして、毫髪の按排をいれざる処なれども、儒教には此無礙清浄の位の上に不思議神通の力をもて、神理霊気不二の二、不一の一を明弁して一段向上精一の神化あり、此神化の後を聖人と名く、至妙天真艮背敵応の位なり、此神化の結胎純熟半なるを亜聖の大賢と名く中行位なり、中行は無欲無為自然の真心無礙清浄の位の上にて、至妙天真艮背敵応の聖胎をむすぶによつて、その議論行迹聖人にたがはず、これを大一天真の神道と名く、許由、巣父、曽哲、荘子、釈迦、達磨などは、無欲無為自然の真心をあきらかにして、無礙清浄の位に至てこれを至極の中道山頂なりと定、至妙天真艮背敵応の聖胎をむすばざるによつて、その無欲無為清浄自然の心なるによつて、悪といふべきにもあらず、天真にもあらず、無欲の妄行といふものなり、聖人これを狂者と名けたまふ、
-
『翁問答』下卷之末体充曰、洪氏曰く、権は聖人の大用なり、未だ立つこと能はずして権を言ふは、猶ほ人の未だ立つこと能はずして行かんと欲するがごとし、仆れざること鮮し、此格言にて見申候へば、先生の教等をこゆる弊あるべしと存候いかゞ。師の曰、此格言は権を工夫のめあてとすることをいましむるにあらず、権の理味を心得ちがへて道のそこなひとなる人をいましめたる主意なり、権の理味を心得そこなひて道のさはりとなる人、二しなあり、一には狂見に入たる人、権道の法におちず迹になづまざる面影を見付、中庸精微の矩をわきまへず、無欲の心にまかせてあとになずまず、法におぢざるを至極の道として、神道の権にそむけり、禅を学ぶ人此心地にまよへりこれは権の体段徹頭徹尾ことごとく中庸精微の神理にして法におぢず迹になづまざるを権の景象なることをさとらず、影を認て形とする誤なり、
-
『翁問答』下卷之末体充曰、左様に候はゞ、中行にいたらざるうちは、儒門の学者も仏家の学者もおなじ事にて候や。師の曰、その心の位意馬の奔走は、初学の間はおなじけれ共、その修行の道は真妄各別なり、たとへば山に登るが如し、儒門の学者の力行する道は、峯までよく通じぬる定たる道をのぼるが如し、平常不易の道なる故に是を天真と云なり、仏家の学者の修行する道は、山八分にきれとありて、峯頭まで通ぜざるすじの登る可き道なき所を、木かやをわけて登るが如し、嶮岨にして道なく人間のとをらざる所なる故にこれを妄行と云なり、初学の間心の位のちがはざるは、山をのぼる道のほど同じければ、その高下のろくなる如し、しかれ共あし下の道、真にしてのぼりやすきと、妄にしてのぼりがたきとは各別なり、よくよく体認あるべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る