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翁問答 / 下卷之末

しかる故に佛者は大虛を超出すれば、貴ことならびなきによつて、父母兄長をも崇恭する理なしなど云て、其父母を拜せず父兄をうやまはず、黃檗禪師の母をころせるを眞實の大孝なりとほめ、或は三綱五常の道を今生幻の間のいとなみにして菩提の種とならずなど誑誘し、或は主親をころしたる極重の惡人にても、念佛の功力にては必極樂淨土へ往生するなどと敎誨せり、其外いろいろさまざまに言葉を巧にし、寓言をつくりて人心をまどはし、禽域へひき入、世敎のさまたげとなる事擧てかぞへがたし、かくのごとくなるは能く學ばざるの過、末流の比丘の罪なりといへども、根本は釋尊無欲の妄行よりおこりたるものなり、

新字:しかる故に仏者は大虚を超出すれば、貴ことならびなきによつて、父母兄長をも崇恭する理なしなど云て、其父母を拝せず父兄をうやまはず、黄檗禅師の母をころせるを真実の大孝なりとほめ、或は三綱五常の道を今生幻の間のいとなみにして菩提の種とならずなど誑誘し、或は主親をころしたる極重の悪人にても、念仏の功力にては必極楽浄土へ往生するなどと教誨せり、其外いろいろさまざまに言葉を巧にし、寓言をつくりて人心をまどはし、禽域へひき入、世教のさまたげとなる事挙てかぞへがたし、かくのごとくなるは能く学ばざるの過、末流の比丘の罪なりといへども、根本は釈尊無欲の妄行よりおこりたるものなり、

書き下し

しかる故に仏者は大虚を超出すれば、貴ことならびなきによつて、父母兄長をも崇恭する理なしなど云て、其父母を拝せず父兄をうやまはず、黄檗禅師の母をころせるを真実の大孝なりとほめ、或は三綱五常の道を今生幻の間のいとなみにして菩提の種とならずなど誑誘し、或は主親をころしたる極重の悪人にても、念仏の功力にては必極楽浄土へ往生するなどと教誨せり、其外いろいろさまざまに言葉を巧にし、寓言をつくりて人心をまどはし、禽域へひき入、世教のさまたげとなる事挙てかぞへがたし、かくのごとくなるは能く学ばざるの過、末流の比丘の罪なりといへども、根本は釈尊無欲の妄行よりおこりたるものなり、

現代語訳

それゆえ仏者は、太虚を超え出れば貴いことは並ぶものがないので、父母兄長をも崇め敬う理はないなどと言って、その父母を拝まず父兄を敬わず、黄檗禅師が母を死なせたのを真実の大孝だと褒め、あるいは三綱五常の道は今生の幻のあいだの営みであって菩提の種にはならないなどとたぶらかし、あるいは主君や親を殺した極重の悪人であっても念仏の功力によって必ず極楽浄土へ往生するなどと教え諭している。そのほかいろいろさまざまに言葉を巧みにし、寓言を作って人心を惑わし、禽獣の域へ引き入れ、世の教えの妨げとなることは数え切れない。このようになるのはよく学ばない過ちであって、末流の比丘の罪ではあるけれども、根本は釈尊の無欲の妄行から起こったものである。

解説

藤樹はここで、当時の僧が説いていたとする具体例を並べる。父母を拝まないこと、黄檗禅師が母を死なせたという伝承を大孝と讃えること、人倫の道を菩提の種にならないとすること、極悪人も念仏で往生すると説くことである。孝を根本に据える藤樹にとって、親と人倫を軽んじる教えは最も見過ごせないものであった。ただし責任をすべて釈尊に負わせず、まず末流の学び方の過ちとし、そのうえで根本にある出発点の誤りを指摘する。問題を個人の悪意で片づけず、源までさかのぼる分析の型として参考になる。

この章句が説くこと

孝人倫父母仏教末流三綱五常

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