翁問答 / 下卷之末
體充曰、釋尊の敎の法を立めされたる本意は、勸善懲惡のためなり、其上道の大意を悟たる人なれば其敎の法さほどに世をまどはし人を誑し禽域におとしいるゝことは有まじきと存候いかが。師の曰、不審尤に候易學をよくきはめざれば、合點成がたき處なれども、その皮膚の大意をかたり候べし、子曰、差之毫釐謬以千里との聖謨の意は、心法の立やう毛頭たがひぬれば、その議論行跡のあやまり千里のちがひとなると云義なり、しかる故に先悟をひらく精粗生熟高下心法の立やうの差別を明に辨ざれば、儒佛眞妄のわかち知がたし、
新字:体充曰、釈尊の教の法を立めされたる本意は、勧善懲悪のためなり、其上道の大意を悟たる人なれば其教の法さほどに世をまどはし人を誑し禽域におとしいるゝことは有まじきと存候いかが。師の曰、不審尤に候易学をよくきはめざれば、合点成がたき処なれども、その皮膚の大意をかたり候べし、子曰、差之毫釐謬以千里との聖謨の意は、心法の立やう毛頭たがひぬれば、その議論行跡のあやまり千里のちがひとなると云義なり、しかる故に先悟をひらく精粗生熟高下心法の立やうの差別を明に弁ざれば、儒仏真妄のわかち知がたし、
書き下し
体充曰、釈尊の教の法を立めされたる本意は、勧善懲悪のためなり、其上道の大意を悟たる人なれば其教の法さほどに世をまどはし人を誑し禽域におとしいるゝことは有まじきと存候いかが。師の曰、不審尤に候易学をよくきはめざれば、合点成がたき処なれども、その皮膚の大意をかたり候べし、子曰、之を毫釐に差へば謬るに千里を以てすとの聖謨の意は、心法の立やう毛頭たがひぬれば、その議論行跡のあやまり千里のちがひとなると云義なり、しかる故に先悟をひらく精粗生熟高下心法の立やうの差別を明に弁ざれば、儒仏真妄のわかち知がたし、
現代語訳
體充が言った。釈尊が教えの法を立てられた本意は勧善懲悪のためである。そのうえ道の大意を悟った人であるから、その教えの法がそれほど世を惑わし、人をたぶらかし、禽獣の域に落とし入れることはあるまいと思うが、いかがか。師は言った。疑問はもっともである。易学をよく究めないと納得しにくいところだが、その表面の大意を語ろう。孔子が「わずかに違えば千里の誤りとなる」と言われた聖謨の意は、心法の立て方がほんの少し違えば、その議論や行いの誤りは千里の違いになるということである。それゆえ、まず悟りを開くうえでの精粗・生熟・高下、心法の立て方の差別を明らかにわきまえなければ、儒と仏の真妄の区別は知りがたい。
解説
この章句が説くこと
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『翁問答』下卷之末しかる故に釈尊の流をくむ人に随分聰明なる人あまたあれ共偏に我堂の仏尊しと迷ひて、或は仏法小乗のあさき教が儒道の極上のふかき説に越へましたると云、或は釈尊は大聖孔子は小賢なりと云、或は仏法は内典聖義なり、儒教は外典俗書なりと云、或は儒教は外道なりなど云て、世をまどはし人をたぶらかしぬ、まことにめくら蛇におぢざる迷び深き心にて、あたまに口のあきたるまゝに、世に人もなげに議するはその道の元祖、釈迦達磨の心にそむきたる理をしらず、いと浅ましく我慢邪慢なるたはこと片腹いたきといひながら、あはれになげかしき事なるべし、歴々聰明なる人のかく道をとりまがふ事は、教の法中庸にそむきたるによりて、其立法の心根はよしといへども末流をくめる学者理味をかみちがへて、皆峯へ登るとて谷へ入ごとくなる故なり、我物をあらそひかたんとおもふ我慢の魔心をはらひすて、儒と云仏と云名をわすれて、本来至誠無息不貳一貫の心学をつとめて、太虚廖廓の神道をさとりぬれば、何のうたがひもなきものなり。
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『翁問答』下卷之末元神元気は不二の二、不一の一にしてまことに毫釐のたがひなれども、其議論行跡のあやまりは千里よりも遠し、しかるによつて其教法勧善懲悪のためなれども、そのすゝむる所の善、皇極の至善にあらず、こらしいましむる所の悪と名くる悪のうちに、真実の悪にあらざるあり不婬の類これなり、釈尊十九にて天子の位をすて山に入、三十成道の後人間本分の生理をいとなまず、或時は乞食し人倫を外にし人事をいとひすて、種々の権教方便説をときて愚民を誑誘めされたること皆是れ無欲無為自然清浄の位を極上と定、元気の霊覚にまかせたる毫髪の差よりおこりたる無欲妄行の誤なり、其流をくめる末代の比丘、釈尊、妙覚の真性、無礙清浄の位をその心地に悟得ことをば務ずして、徒に釈尊無欲妄行のあとをにせたる斗りなれば、我慢の邪心凡夫よりもふかく、高言をたくみにし弁舌をたくましくして、かりそめにも勝ことを好み愚民を誑し、すゝむるをもて務とし、同じ流をくみながら我慢の偏執を立て互にそしり争こと、貪夫の畔を争よりも浅まし
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『翁問答』下卷之末その上すゝむる所の善真実無妄の至善にあらず、三才一貫中庸精微の至道にそむきて、人極のさまたげとなること多し、聖人中庸の法さへ迹になづみぬれば、人極のさはりとなるものなれば、まして狂者偏僻の法を迹ばかりを専らと取おこなふによつて、元来釈迦達磨の心根は勧善懲悪のためなるべけれども、末流には善をやぶり、悪をすゝめ、人の心を、迷はしめること、淫声美色のごとし、これみな末代その流をくむ比丘のあやまりと云ながら、本来狂者の所見純熟せざるによつて、その教法粗糲迂濶なる故なり、釈迦も達磨もすぐれたる狂者なれば、聖人にあひめされたらば必ず中庸精微の密に悟入して、中行の位に至めさるべし、たとひ中行にいたりめされずとも、許由曽哲などの如くにありて、かく世をまどはす教の法をば立めさるまじ、聖人出世ましまさぬ戎国に生出て、その法のひろまりたること幸に似たる不幸なり。
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『翁問答』下卷之末之末体充問曰、仙術を学ぶ人は、長生不死の益あり、仏道を修行する人は、成仏得脱の益ありと承及候儒道を学候ても左様なる身後の益も御座候や。師の曰、さやうの疑も異端の説を聞あやまりておこることにて候、孝経易経をよく悟ぬれば、生前死後のことはり掌を指ごとく分明なれば、とかうの議論に及ばぬことなり、しかれども今時の人は、多分此疑あればしばらく仙仏の道によつてそのまよいをとき候べし、仙家の長生不死の術も、仏家の成仏得脱の修行も皆畢竟は一心の工夫なり、仙家には修心煉性を宗旨とす、仏家には明心見性を宗旨とす其工夫の十分成就する所の心性を長生不死と云、成仏得脱と云なり、二氏ともに元気の霊覚を心性の端的として、元神の妙理をさとり得ず、しかる故にその見性成道中行の君子より一位下なり、
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『翁問答』下卷之末体充曰、左様に候はゞ、中行にいたらざるうちは、儒門の学者も仏家の学者もおなじ事にて候や。師の曰、その心の位意馬の奔走は、初学の間はおなじけれ共、その修行の道は真妄各別なり、たとへば山に登るが如し、儒門の学者の力行する道は、峯までよく通じぬる定たる道をのぼるが如し、平常不易の道なる故に是を天真と云なり、仏家の学者の修行する道は、山八分にきれとありて、峯頭まで通ぜざるすじの登る可き道なき所を、木かやをわけて登るが如し、嶮岨にして道なく人間のとをらざる所なる故にこれを妄行と云なり、初学の間心の位のちがはざるは、山をのぼる道のほど同じければ、その高下のろくなる如し、しかれ共あし下の道、真にしてのぼりやすきと、妄にしてのぼりがたきとは各別なり、よくよく体認あるべし。
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『都鄙問答』卷之三・性理問答ノ段学び得ざれば益なし。仏家を学ぶとも、我が心を正しく得るならば善かるべし。心に二つの替りあらんや。仏家に習へば、心が外に替る者と思ふ者は、笑ふにも又絶えたり。仏家も、最初は儒学より入る僧多し。儒書が妨げになりて、仏意を得ること成り難きことを聞かず。儒者も其の如くに、仏法を以て、心の磨ぎ種にして心を得て、何ぞ儒家の妨げとなるべきや。既に仏氏儒者の方にて発明しても、用ふる所は仏法に用ふるなり。又経論に因りて見れば、仏は覚なり、覚は、一切衆生の迷ひ、解くるなりとあり。迷ひ解くれば、本に帰るゆゑに、三界唯一心と云ふ。迷ひの解けたる体を名付けて仏性と云ふ。仏性と云ふは、天地人の体なり。至極の所は、性を知る外に仏法あらんや。
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