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翁問答 / 下卷之末

その上すゝむる所の善眞實無妄の至善にあらず、三才一貫中庸精微の至道にそむきて、人極のさまたげとなること多し、聖人中庸の法さへ迹になづみぬれば、人極のさはりとなるものなれば、まして狂者偏僻の法を迹ばかりを專らと取おこなふによつて、元來釋迦達磨の心根は勸善懲惡のためなるべけれども、末流には善をやぶり、惡をすゝめ、人の心を、迷はしめること、淫聲美色のごとし、これみな末代その流をくむ比丘のあやまりと云ながら、本來狂者の所見純熟せざるによつて、その敎法粗糲迂濶なる故なり、釋迦も達磨もすぐれたる狂者なれば、聖人にあひめされたらば必ず中庸精微の密に悟入して、中行の位に至めさるべし、たとひ中行にいたりめされずとも、許由曾哲などの如くにありて、かく世をまどはす敎の法をば立めさるまじ、聖人出世ましまさぬ戎國に生出て、その法のひろまりたること幸に似たる不幸なり。

新字:その上すゝむる所の善真実無妄の至善にあらず、三才一貫中庸精微の至道にそむきて、人極のさまたげとなること多し、聖人中庸の法さへ迹になづみぬれば、人極のさはりとなるものなれば、まして狂者偏僻の法を迹ばかりを専らと取おこなふによつて、元来釈迦達磨の心根は勧善懲悪のためなるべけれども、末流には善をやぶり、悪をすゝめ、人の心を、迷はしめること、淫声美色のごとし、これみな末代その流をくむ比丘のあやまりと云ながら、本来狂者の所見純熟せざるによつて、その教法粗糲迂濶なる故なり、釈迦も達磨もすぐれたる狂者なれば、聖人にあひめされたらば必ず中庸精微の密に悟入して、中行の位に至めさるべし、たとひ中行にいたりめされずとも、許由曽哲などの如くにありて、かく世をまどはす教の法をば立めさるまじ、聖人出世ましまさぬ戎国に生出て、その法のひろまりたること幸に似たる不幸なり。

書き下し

その上すゝむる所の善真実無妄の至善にあらず、三才一貫中庸精微の至道にそむきて、人極のさまたげとなること多し、聖人中庸の法さへ迹になづみぬれば、人極のさはりとなるものなれば、まして狂者偏僻の法を迹ばかりを専らと取おこなふによつて、元来釈迦達磨の心根は勧善懲悪のためなるべけれども、末流には善をやぶり、悪をすゝめ、人の心を、迷はしめること、淫声美色のごとし、これみな末代その流をくむ比丘のあやまりと云ながら、本来狂者の所見純熟せざるによつて、その教法粗糲迂濶なる故なり、釈迦も達磨もすぐれたる狂者なれば、聖人にあひめされたらば必ず中庸精微の密に悟入して、中行の位に至めさるべし、たとひ中行にいたりめされずとも、許由曽哲などの如くにありて、かく世をまどはす教の法をば立めさるまじ、聖人出世ましまさぬ戎国に生出て、その法のひろまりたること幸に似たる不幸なり。

現代語訳

(師は続けた。)「そのうえ勧める善は真実無妄の至善ではなく、三才一貫・中庸精微の至道に背いて、人の極(人としての道)の妨げとなることが多い。聖人の中庸の法でさえ、その跡に泥めば人極の障りとなるものであるから、まして狂者の偏った法を跡ばかりもっぱらに取り行うので、もともと釈迦・達磨の心根は勧善懲悪のためであったはずなのに、末流では善を破り悪を勧め、人の心を迷わせることは淫らな音曲や美色のようである。これはみな末代にその流れを汲む比丘の誤りとはいいながら、本来狂者の所見が純熟していないので、その教法が粗雑で迂遠であるためである。釈迦も達磨も優れた狂者であるから、聖人に会われたならば必ず中庸精微の奥に悟入して、中行の位に至られたであろう。たとえ中行に至られなくても、許由・曾皙などのようであって、このように世を惑わす教えの法は立てられなかったであろう。聖人の出世されない戎国に生まれ出て、その法が広まったことは、幸いに似た不幸である。」

解説

藤樹は、教えが損なわれる原因を二つ挙げる。一つは後の世の僧が教えの形だけをなぞったこと、もう一つは教えそのものが狂者の見方で成熟していなかったことである。聖人の中庸の教えでさえ、形だけに泥めば人の道の妨げになるという指摘は、儒教自身にも向けられた戒めとして重い。釈迦や達磨も聖人に会えば中行に至ったはずだという評は、人物への敬意を含んでいる。理念が形式化して本来の趣旨を損なうという問題は、どの組織の規則や慣行にも起こりうる。

この章句が説くこと

中庸迹至善狂者仏教形式

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