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都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段

學ビ得ザレバ益ナシ、佛家ヲ學ブトモ、我心ヲ正ク得ルナラバ善カルベシ、心ニ二ッノ替アランヤ、佛家ニ習バ、心ガ外ニ替ル者ト思フ者ハ、笑フニモ又絕タリ、佛家モ、最初ハ儒學ヨリ入僧多シ、儒書ガ妨ニナリテ、佛意ヲ得ルコト成難キコトヲ聞ズ、儒者モ其如クニ、佛法ヲ以テ、心ノ磨種ニシテ心ヲ得テ、何ゾ儒家ノ妨トナルベキヤ、旣ニ佛氏儒者ノ方ニテ發明シテモ、用ユル所ハ佛法ニ用ユルナリ、又經論ニ因テ見レバ、佛ハ覺ナリ、覺ハ、一切衆生ノ迷ヒ、解ルナリトアリ、迷ヒ解レバ、本ニ歸ルユヘニ、三界唯一心ト云、迷ヒノ解タル體ヲ名付テ佛性ト云、佛性ト云ハ、天地人ノ體ナリ、至極ノ所ハ、性ヲ知ル外ニ佛法アランヤ、

新字:学ビ得ザレバ益ナシ、仏家ヲ学ブトモ、我心ヲ正ク得ルナラバ善カルベシ、心ニ二ッノ替アランヤ、仏家ニ習バ、心ガ外ニ替ル者ト思フ者ハ、笑フニモ又絶タリ、仏家モ、最初ハ儒学ヨリ入僧多シ、儒書ガ妨ニナリテ、仏意ヲ得ルコト成難キコトヲ聞ズ、儒者モ其如クニ、仏法ヲ以テ、心ノ磨種ニシテ心ヲ得テ、何ゾ儒家ノ妨トナルベキヤ、既ニ仏氏儒者ノ方ニテ発明シテモ、用ユル所ハ仏法ニ用ユルナリ、又経論ニ因テ見レバ、仏ハ覚ナリ、覚ハ、一切衆生ノ迷ヒ、解ルナリトアリ、迷ヒ解レバ、本ニ帰ルユヘニ、三界唯一心ト云、迷ヒノ解タル体ヲ名付テ仏性ト云、仏性ト云ハ、天地人ノ体ナリ、至極ノ所ハ、性ヲ知ル外ニ仏法アランヤ、

書き下し

学び得ざれば益なし。仏家を学ぶとも、我が心を正しく得るならば善かるべし。心に二つの替りあらんや。仏家に習へば、心が外に替る者と思ふ者は、笑ふにも又絶えたり。仏家も、最初は儒学より入る僧多し。儒書が妨げになりて、仏意を得ること成り難きことを聞かず。儒者も其の如くに、仏法を以て、心の磨ぎ種にして心を得て、何ぞ儒家の妨げとなるべきや。既に仏氏儒者の方にて発明しても、用ふる所は仏法に用ふるなり。又経論に因りて見れば、仏は覚なり、覚は、一切衆生の迷ひ、解くるなりとあり。迷ひ解くれば、本に帰るゆゑに、三界唯一心と云ふ。迷ひの解けたる体を名付けて仏性と云ふ。仏性と云ふは、天地人の体なり。至極の所は、性を知る外に仏法あらんや。

現代語訳

学び得なければ益はありません。仏家で学んでも、自分の心を正しく得るなら良いのです。心に二つの違いがあるでしょうか。仏家で習えば心が別物に変わると思う者は、笑うにも笑えません。仏家でも、初めは儒学から入った僧が多い。儒書が妨げになって仏意を得られなかったという話は聞きません。儒者も同じように、仏法を心の磨き粉にして心を得たとして、どうして儒家の妨げになるでしょう。仏者が儒者のもとで悟っても、それを用いるのは仏法においてです。また経典や論書によれば、仏とは覚であり、覚とは一切衆生の迷いが解けることだとあります。迷いが解ければ本に帰るので、三界はただ一心と言います。迷いの解けた本体を名づけて仏性と言います。仏性とは天地人の本体です。つまるところ、本性を知ること以外に仏法があるでしょうか。

解説

どの道で学んでも得る心は一つだ、という論を仏教の用語で補強する段です。僧にも儒学から入った者が多いが儒書が妨げになった例は聞かない、だから儒者が仏法で心を磨いても儒の妨げにはならない、という対称の論法です。仏とは覚、覚とは迷いが解けること、迷いが解ければ本に帰る、と仏教を「性を知る」ことに引きつけて読むのは、儒仏を性理で統一する梅岩の方法そのものです。異なる分野の知見を取り入れても本業は揺らがない、という学び方の示唆にもなります。

この章句が説くこと

仏性迷い一心

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