翁問答 / 下卷之末
しかる故に釋尊の流をくむ人に隨分聰明なる人あまたあれ共偏に我堂の佛尊しと迷ひて、或は佛法小乘のあさき敎が儒道の極上のふかき說に越へましたると云、或は釋尊は大聖孔子は小賢なりと云、或は佛法は內典聖義なり、儒敎は外典俗書なりと云、或は儒敎は外道なりなど云て、世をまどはし人をたぶらかしぬ、まことにめくら蛇におぢざる迷び深き心にて、あたまに口のあきたるまゝに、世に人もなげに議するはその道の元祖、釋迦達磨の心にそむきたる理をしらず、いと淺ましく我慢邪慢なるたはこと片腹いたきといひながら、あはれになげかしき事なるべし、歷々聰明なる人のかく道をとりまがふ事は、敎の法中庸にそむきたるによりて、其立法の心根はよしといへども末流をくめる學者理味をかみちがへて、皆峯へ登るとて谷へ入ごとくなる故なり、我物をあらそひかたんとおもふ我慢の魔心をはらひすて、儒と云佛と云名をわすれて、本來至誠無息不貳一貫の心學をつとめて、太虛廖廓の神道をさとりぬれば、何のうたがひもなきものなり。
新字:しかる故に釈尊の流をくむ人に随分聰明なる人あまたあれ共偏に我堂の仏尊しと迷ひて、或は仏法小乗のあさき教が儒道の極上のふかき説に越へましたると云、或は釈尊は大聖孔子は小賢なりと云、或は仏法は内典聖義なり、儒教は外典俗書なりと云、或は儒教は外道なりなど云て、世をまどはし人をたぶらかしぬ、まことにめくら蛇におぢざる迷び深き心にて、あたまに口のあきたるまゝに、世に人もなげに議するはその道の元祖、釈迦達磨の心にそむきたる理をしらず、いと浅ましく我慢邪慢なるたはこと片腹いたきといひながら、あはれになげかしき事なるべし、歴々聰明なる人のかく道をとりまがふ事は、教の法中庸にそむきたるによりて、其立法の心根はよしといへども末流をくめる学者理味をかみちがへて、皆峯へ登るとて谷へ入ごとくなる故なり、我物をあらそひかたんとおもふ我慢の魔心をはらひすて、儒と云仏と云名をわすれて、本来至誠無息不貳一貫の心学をつとめて、太虚廖廓の神道をさとりぬれば、何のうたがひもなきものなり。
書き下し
しかる故に釈尊の流をくむ人に随分聰明なる人あまたあれ共偏に我堂の仏尊しと迷ひて、或は仏法小乗のあさき教が儒道の極上のふかき説に越へましたると云、或は釈尊は大聖孔子は小賢なりと云、或は仏法は内典聖義なり、儒教は外典俗書なりと云、或は儒教は外道なりなど云て、世をまどはし人をたぶらかしぬ、まことにめくら蛇におぢざる迷び深き心にて、あたまに口のあきたるまゝに、世に人もなげに議するはその道の元祖、釈迦達磨の心にそむきたる理をしらず、いと浅ましく我慢邪慢なるたはこと片腹いたきといひながら、あはれになげかしき事なるべし、歴々聰明なる人のかく道をとりまがふ事は、教の法中庸にそむきたるによりて、其立法の心根はよしといへども末流をくめる学者理味をかみちがへて、皆峯へ登るとて谷へ入ごとくなる故なり、我物をあらそひかたんとおもふ我慢の魔心をはらひすて、儒と云仏と云名をわすれて、本来至誠無息不貳一貫の心学をつとめて、太虚廖廓の神道をさとりぬれば、何のうたがひもなきものなり。
現代語訳
(師は続けた。)「それゆえ釈尊の流れを汲む人に、なかなか聡明な人が多くいるけれども、ひとえに自分の宗派の仏が尊いと迷って、あるいは仏法小乗の浅い教えが儒道の極上の深い説にまさっていると言い、あるいは釈尊は大聖で孔子は小賢であると言い、あるいは仏法は内典で聖なる義であり、儒教は外典の俗書であると言い、あるいは儒教は外道であるなどと言って、世を惑わし人をたぶらかしている。まことに盲蛇に怖じずという迷いの深い心で、頭に口が開いているのにまかせて、世に人もないかのように論じるのは、その道の元祖である釈迦・達磨の心に背いている道理を知らないのであって、たいへん浅ましく、我慢・邪慢のたわごとで笑止とはいいながら、哀れで嘆かわしいことである。歴々の聡明な人がこのように道を取り違えるのは、教えの法が中庸に背いているので、その立法の心根はよいといっても、末流を汲む学者が理味を噛み違えて、みな峰へ登ろうとして谷へ入るようになるからである。自分の物を争って勝とうと思う我慢の魔心を払い捨て、儒と言い仏と言う名を忘れて、本来の至誠無息・不貳一貫の心学を勤めて、太虚寥廓の神道を悟れば、何の疑いもないものである。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武士道』第六章 禮儀・誠を語ると礼を守ると試みに日本人に向ひ、誠を語ると、礼を守ると、いづれか重きやと問はば、彼れ必ずや、全く米人に相反するの辞を以て答とせんと云ふものあり。其説の当否はしばらく之を置き、次章『至誠』を説くの項下に於て、之に論及するものあらん。
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呂氏春秋・士容②齊に善く狗を相する者有り。其の鄰假いて以て鼠を取るの狗を買わんとす。期年にして乃ち之を得て、曰く、「是れ良狗なり。」其の鄰、之を畜うこと數年なれども、鼠を取らず。以て相する者に告ぐ。相する者曰く、「此れ良狗なり。其の志は獐麋豕鹿に在り、鼠に在らず。其の鼠を取らんことを欲せば、則ち之に桎せよ。」其の鄰、其の後ろ足に桎すれば、狗乃ち鼠を取る。夫れ驥驁の氣、鴻鵠の志、人心に諭らるる者有るは誠なればなり。人も亦た然り。誠之れ有れば則ち神、人に應ず。言豈に以て之を諭すに足らんや。此を不言の言と謂うなり。
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荀子・不苟篇君子の心を養うは誠より善きは莫し。誠を致さば則ち它事無し。唯だ仁のみ之れ守と為し、唯だ義のみ之れ行と為す。心を誠にして仁を守れば則ち形れ、形るれば則ち神なり、神なれば則ち能く化す。心を誠にして義を行なえば則ち理あり、理あれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち能く変ず。変化代わる代わる興る、之を天徳と謂う。天は言わずして人は高きを推し、地は言わずして人は厚きを推し、四時は言わずして百姓は期す。夫れ此れ常有るは、其の誠を至せる者を以てなり。君子の至徳は、嘿然として喩り、未だ施さずして親しみ、怒らずして威あり。夫れ此れ命に順うは、其の独りを慎む者を以てなり。善の道を為すや、誠ならざれば則ち独ならず、独ならざれば則ち形れず、形れざれば則ち心に作り、色に見れ、言に出づと雖も、民は猶お未だ従わざるが若し。従うと雖も必ず疑う。天地は大と為すも、誠ならざれば則ち万物を化する能わず。聖人は知と為すも、誠ならざれば則ち万民を化する能わず。父子は親と為すも、誠ならざれば則ち疏し。君上は尊と為すも、誠ならざれば則ち卑し。夫れ誠なる者は、君子の守る所にして、政事の本なり。唯だ居る所にして其の類を以て至る。之を操れば則ち之を得、之を舎つれば則ち之を失う。操りて之を得れば則ち軽し、軽ければ則ち独行す。独行して舎てざれば、則ち済る。済りて材尽き、長く遷りて其の初めに反らざれば、則ち化す。
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言志四録・南洲手抄意の誠否は、須らく夢寐中の事に於て之を験すべし。
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論語・八佾篇祭ること在るが如く。神を祭ること神在るが如し。子曰く、『吾、祭に与らざれば、祭らざるが如し。』
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『武士道』第七章 至誠信實・礼に過ぐれば諂いとなる礼もし誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば諂ひとなる』と。又た菅公が誠の歌に、『心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん』とあるは、ポローニアスが、『自から已に誠なるべし。さらば人に誠無き能はず』との訓言に比するに、義はなはだ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動かさずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に騁するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトン学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。
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