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翁問答 / 下卷之末

體充曰、大唐と天竺とは十萬里隔りたりと承候、そのうへ釋尊の作法と大唐の狂者の作法とは、違ひたる所多く候へば、おなじく狂者とは申がたく存候いかが。師の曰、ことばと作法とにて吟味評判するは、心盲の凡夫の業にていとあさましきまよひなり、國のちがひ作法ことばになずむ心のくらさにては、中々道の得心儒道佛道の差別を辨ふることは成べからず、先あとに泥まずして心をよく觀察する理をあきらめらるべし、國所世界の差別いろいろ樣々ありと雖、本來みな太虛神道のみちに開闢したる國土なれば神道は十方世界みなひとつなり、しかるによりて國隔りぬればことば風俗はかはるといへ共、その心の位は本來同一體の神道なるによりて、唐土も天竺も我朝も、またその外あるとあらゆる國土のうち、毛頭ちがふ事なし、

新字:体充曰、大唐と天竺とは十万里隔りたりと承候、そのうへ釈尊の作法と大唐の狂者の作法とは、違ひたる所多く候へば、おなじく狂者とは申がたく存候いかが。師の曰、ことばと作法とにて吟味評判するは、心盲の凡夫の業にていとあさましきまよひなり、国のちがひ作法ことばになずむ心のくらさにては、中々道の得心儒道仏道の差別を弁ふることは成べからず、先あとに泥まずして心をよく観察する理をあきらめらるべし、国所世界の差別いろいろ様々ありと雖、本来みな太虚神道のみちに開闢したる国土なれば神道は十方世界みなひとつなり、しかるによりて国隔りぬればことば風俗はかはるといへ共、その心の位は本来同一体の神道なるによりて、唐土も天竺も我朝も、またその外あるとあらゆる国土のうち、毛頭ちがふ事なし、

書き下し

体充曰、大唐と天竺とは十万里隔りたりと承候、そのうへ釈尊の作法と大唐の狂者の作法とは、違ひたる所多く候へば、おなじく狂者とは申がたく存候いかが。師の曰、ことばと作法とにて吟味評判するは、心盲の凡夫の業にていとあさましきまよひなり、国のちがひ作法ことばになずむ心のくらさにては、中々道の得心儒道仏道の差別を弁ふることは成べからず、先あとに泥まずして心をよく観察する理をあきらめらるべし、国所世界の差別いろいろ様々ありと雖、本来みな太虚神道のみちに開闢したる国土なれば神道は十方世界みなひとつなり、しかるによりて国隔りぬればことば風俗はかはるといへ共、その心の位は本来同一体の神道なるによりて、唐土も天竺も我朝も、またその外あるとあらゆる国土のうち、毛頭ちがふ事なし、

現代語訳

體充が言った。「大唐と天竺とは十万里隔たっていると承ります。そのうえ釈尊の作法と大唐の狂者の作法とは違うところが多いので、同じく狂者とは申しがたく存じますが、いかがでしょうか」。師は言う。「言葉と作法とで吟味し評判するのは、心の盲いた凡夫のわざであって、たいへんあさましい迷いである。国の違い、作法や言葉にとらわれる心の暗さでは、とても道の得心や、儒道・仏道の差別をわきまえることはできない。まず跡に泥まずに、心をよく観察する道理を明らかにすべきである。国や所や世界の差別はいろいろさまざまであるが、本来みな太虚神道の道に開闢した国土であるから、神道は十方世界みな一つである。それによって、国が隔たれば言葉や風俗は変わるけれども、その心の位は本来同一体の神道であるから、唐土も天竺もわが国も、またそのほかあらゆる国土のうち、少しも違うことはない。」

解説

體充は、インドと中国では距離も作法も違うのに、釈迦と荘子を同じ狂者と呼べるのかと問う。藤樹は、言葉や作法の違いで人を判断するのは心の見えない者のすることだと答える。すべての国土は太虚の神道から開けたものであり、言語や風俗は違っても、人の心の位は同じ物差しで測れるという。これは、人間の本心は国や文化を超えて共通だという藤樹の普遍主義の表明である。外見や文化の違いに目を奪われず、相手の心の在り方を見よという姿勢は、多様な人と働く今日にこそ響く。

この章句が説くこと

心太虚神道普遍迹

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