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翁問答 / 下卷之末

すでに聖人の日の光かくれたまひ、やみの夜となりたる戰國にいでられたる、莊子はその狂見をたくましくふるまひ人におしへがきをあらはして、大唐の狂者の敎の始となれり、しかれども聖人の日の光かくれたまひていまだ程遠からぬゆへに、その星の光甚しからず、これにて聖人の日の光なきやみの夜には、狂者の星の光輝ことを考しべし、大唐には聖人あまた出たまひて、三才一貫、中庸精微の敎さかんに行はれたるさへ、その日の光かくれたまひたるのちは莊子のごとくなり、まして天竺には終に聖人一人もいでたまはず、開闢より釋尊の時分までやみの世の戎國なれば、釋尊狂見の敎を衆生信仰すること尤なり、天竺に聖人の至敎なきによつて、三才一貫中庸精微の密に悟入すること能はず、只その廣大高明一偏の悟を大覺明悟なりとおもひ定、天竺戎の風俗によつて敎の法を立て、衆生を敎化めされたり、

新字:すでに聖人の日の光かくれたまひ、やみの夜となりたる戦国にいでられたる、荘子はその狂見をたくましくふるまひ人におしへがきをあらはして、大唐の狂者の教の始となれり、しかれども聖人の日の光かくれたまひていまだ程遠からぬゆへに、その星の光甚しからず、これにて聖人の日の光なきやみの夜には、狂者の星の光輝ことを考しべし、大唐には聖人あまた出たまひて、三才一貫、中庸精微の教さかんに行はれたるさへ、その日の光かくれたまひたるのちは荘子のごとくなり、まして天竺には終に聖人一人もいでたまはず、開闢より釈尊の時分までやみの世の戎国なれば、釈尊狂見の教を衆生信仰すること尤なり、天竺に聖人の至教なきによつて、三才一貫中庸精微の密に悟入すること能はず、只その広大高明一偏の悟を大覚明悟なりとおもひ定、天竺戎の風俗によつて教の法を立て、衆生を教化めされたり、

書き下し

すでに聖人の日の光かくれたまひ、やみの夜となりたる戦国にいでられたる、荘子はその狂見をたくましくふるまひ人におしへがきをあらはして、大唐の狂者の教の始となれり、しかれども聖人の日の光かくれたまひていまだ程遠からぬゆへに、その星の光甚しからず、これにて聖人の日の光なきやみの夜には、狂者の星の光輝ことを考しべし、大唐には聖人あまた出たまひて、三才一貫、中庸精微の教さかんに行はれたるさへ、その日の光かくれたまひたるのちは荘子のごとくなり、まして天竺には終に聖人一人もいでたまはず、開闢より釈尊の時分までやみの世の戎国なれば、釈尊狂見の教を衆生信仰すること尤なり、天竺に聖人の至教なきによつて、三才一貫中庸精微の密に悟入すること能はず、只その広大高明一偏の悟を大覚明悟なりとおもひ定、天竺戎の風俗によつて教の法を立て、衆生を教化めされたり、

現代語訳

(師は続けた。)「すでに聖人の日の光が隠れ、闇夜となった戦国時代に現れた荘子は、その狂見をたくましく振る舞って人に教えを書き著し、大唐の狂者の教えの始まりとなった。しかし聖人の日の光が隠れてまだ間もなかったので、その星の光ははなはだしくはなかった。これによって、聖人の日の光のない闇夜には、狂者の星の光が輝くことを考え知るべきである。大唐には聖人が多く出られ、三才一貫・中庸精微の教えが盛んに行われていたのに、その日の光が隠れた後は荘子のようになった。まして天竺にはついに聖人が一人も出られず、開闢から釈尊の時分まで闇の世の戎国であったから、釈尊の狂見の教えを衆生が信仰するのももっともである。天竺には聖人の至教がないので、三才一貫・中庸精微の奥に悟入することができず、ただその広大高明一偏の悟りを大覚明悟であると思い定め、天竺の戎の風俗によって教えの法を立て、衆生を教化されたのである。」

解説

藤樹は日と星の比喩を歴史に当てはめる。聖人の時代が去った戦国期に荘子が現れて教えを書き残し、聖人の一人も出なかったインドでは、釈迦の教えが人々の信仰を集めたという。釈迦が広大高明な悟りを最高の悟りと思い定めたのは、天地人を貫く中庸の精微を示す聖人の教えに触れなかったからだと見る。ここには儒者としての藤樹の仏教観が率直に出ている。現代の目からは一方的な見方だが、思想を風土や時代との関係で捉えようとする姿勢は読み取れる。

この章句が説くこと

狂者聖人仏教中庸天竺

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