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翁問答 / 下卷之末

體充曰、狂者と申はいかやうなる人にて候や。師の曰、狂者は道體の廣大高明なる所をば悟といへども、未だ精微中庸の密に悟入せざるによりて、見性成道の心術粗糲迂濶にして、修行異相に逸狂なるものなり、大唐にては許由、巢父、牧皮、曾哲子、桑戶、莊子、天竺にては釋迦、達磨など勝れたる狂者なり、人の生付しなかはるによりて、道學して見性成道する位に上中下の三段あり、中行は聖人の下亞聖の大賢なり、これは三段のうちにて第一段上の位なり、狂者は中行の下第二段中の位なり、第三段下の位は狷者也學問しても此三段の位にいたらざるは俗學といふものなり、よくよく體認すべし。

新字:体充曰、狂者と申はいかやうなる人にて候や。師の曰、狂者は道体の広大高明なる所をば悟といへども、未だ精微中庸の密に悟入せざるによりて、見性成道の心術粗糲迂濶にして、修行異相に逸狂なるものなり、大唐にては許由、巣父、牧皮、曽哲子、桑戸、荘子、天竺にては釈迦、達磨など勝れたる狂者なり、人の生付しなかはるによりて、道学して見性成道する位に上中下の三段あり、中行は聖人の下亜聖の大賢なり、これは三段のうちにて第一段上の位なり、狂者は中行の下第二段中の位なり、第三段下の位は狷者也学問しても此三段の位にいたらざるは俗学といふものなり、よくよく体認すべし。

書き下し

体充曰、狂者と申はいかやうなる人にて候や。師の曰、狂者は道体の広大高明なる所をば悟といへども、未だ精微中庸の密に悟入せざるによりて、見性成道の心術粗糲迂濶にして、修行異相に逸狂なるものなり、大唐にては許由、巣父、牧皮、曽哲子、桑戸、荘子、天竺にては釈迦、達磨など勝れたる狂者なり、人の生付しなかはるによりて、道学して見性成道する位に上中下の三段あり、中行は聖人の下亜聖の大賢なり、これは三段のうちにて第一段上の位なり、狂者は中行の下第二段中の位なり、第三段下の位は狷者也学問しても此三段の位にいたらざるは俗学といふものなり、よくよく体認すべし。

現代語訳

體充が言った。「狂者と申すのはどのような人でしょうか」。師は言う。「狂者は、道体の広大高明なところは悟っているが、まだ精微中庸の奥深いところに悟入していないので、見性成道の心術が粗雑で迂遠であり、修行が常と異なって並外れて奔放な者である。大唐では許由・巣父・牧皮・曾皙・子桑戸・荘子、天竺では釈迦・達磨などが優れた狂者である。人の生まれつきの品が変わるので、道を学んで見性成道する位に上中下の三段がある。中行は聖人の下、亜聖の大賢であり、これは三段のうち第一段の上の位である。狂者は中行の下で第二段の中の位である。第三段の下の位は狷者である。学問してもこの三段の位に至らないのは俗学というものである。よくよく体認すべきである。」

解説

『論語』子路篇で孔子は、中行の人と共にできなければ「狂狷」を取ると言い、狂者は進んで取り、狷者はしないことがあると評した。藤樹はこれを、道を悟る段階の上中下として整理する。狂者は道の広大さは見ているが、細部の中庸にまで行き届かず、言動が奔放になる人である。荘子や釈迦・達磨をここに置くのは、儒者としての藤樹の立場をよく示している。大きな理想を掴むことと、日々の具体に過不足なく生かすことは別の力であると気づかせる区分である。

この章句が説くこと

狂者中行狷者中庸学問論語

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