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翁問答 / 下卷之本

體充問曰、棄用としわきとは何れがよくおはしまし候や。師の曰、きようとしわきとは、財寶を用ふる大過不及のあやまりにて、いづれもわろし、棄用にもしわくもなく、中庸適當の用にあたるをよしとす、上天子より下庶人にいたるまで、財用の工夫一大事なり、つかふべき義理なきにも、むざとつかひ、ついやしあたふべき道なきにもみだりにあたへ、少しの褒美あるべき忠功に過分の知行を加恩し、家作諸道具以下なにゝつきても分過を好み、財寳をおしみたくはへざるを世俗きようといへり君子淸白廉直の行跡に似たるによつて、凡夫見まがひてよしとほむる也、

新字:体充問曰、棄用としわきとは何れがよくおはしまし候や。師の曰、きようとしわきとは、財宝を用ふる大過不及のあやまりにて、いづれもわろし、棄用にもしわくもなく、中庸適当の用にあたるをよしとす、上天子より下庶人にいたるまで、財用の工夫一大事なり、つかふべき義理なきにも、むざとつかひ、ついやしあたふべき道なきにもみだりにあたへ、少しの褒美あるべき忠功に過分の知行を加恩し、家作諸道具以下なにゝつきても分過を好み、財宝をおしみたくはへざるを世俗きようといへり君子清白廉直の行跡に似たるによつて、凡夫見まがひてよしとほむる也、

書き下し

体充問曰、棄用としわきとは何れがよくおはしまし候や。師の曰、きようとしわきとは、財宝を用ふる大過不及のあやまりにて、いづれもわろし、棄用にもしわくもなく、中庸適当の用にあたるをよしとす、上天子より下庶人にいたるまで、財用の工夫一大事なり、つかふべき義理なきにも、むざとつかひ、ついやしあたふべき道なきにもみだりにあたへ、少しの褒美あるべき忠功に過分の知行を加恩し、家作諸道具以下なにゝつきても分過を好み、財宝をおしみたくはへざるを世俗きようといへり君子清白廉直の行跡に似たるによつて、凡夫見まがひてよしとほむる也、

現代語訳

體充が問うた。「気前よく使うこと(棄用)と、けちであることとでは、どちらがよいのでしょうか」。師は言う。「棄用とけちとは、財宝の使い方における行き過ぎと足りなさの誤りであって、どちらもよくない。気前よすぎもせず、けちでもなく、中庸にかなった適切な使い方をよしとする。上は天子から下は庶民に至るまで、財の用い方の工夫は一大事である。使うべき義理がないのにむやみに使って費やし、与えるべき道がないのにみだりに与え、少しの褒美で足りる忠功に過分の知行を加増し、家の造作や諸道具をはじめ何事につけても分不相応を好み、財宝を惜しんで蓄えないことを、世間では『きよう』と言っている。これは君子の清白廉直な振る舞いに似ているので、凡夫は見誤って褒めるのである。」

解説

藤樹はまず、気前のよさとけちを「過ぎる」と「及ばない」の二つの誤りとして並べる。中庸を物差しにする儒学の基本の型である。ここで鋭いのは、浪費が世間では潔さとして称賛されやすいという指摘だ。分不相応な加増や豪華な普請は、金に執着しない清らかな人柄に見えてしまう。しかし藤樹にとって基準は見た目の潔さではなく、使うべき義理があるかどうかである。予算の使い方を評価するとき、景気のよさを器の大きさと取り違えていないかを問い直させる一節である。

この章句が説くこと

中庸財用浪費義理清廉倹約

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