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翁問答 / 下卷之本

次第に書物多くなりて、孔子の時には六經みな備はりたり、孔門の敎へ文と行と忠と信との四なり、文は六經の文なり、行は性にしたがふ道の行ひなり、忠信は自滿の心根をたちすてゝ誠の道を求め、明德を明にする工夫なり、此四に本末衡鑑の差別あり、忠信は根本なり行は幹梢なり、文は忠信と行との鑑なり、六經の文をよみその本意を講明してかゞみと定め、根本幹梢の工夫をよくつとめて、明德の寶珠をみがくものなり、聖人のましまして直におしへ給ふにさへ、かくの如し、まして末代聖賢のましまさぬ時に、鑑とさだむる聖經賢傳をすてゝ講ぜず、暗く迷ひたる心まかせて學問したるが、よきなといへるは、燈をすてゝ暗室に物をたずぬる如し。

新字:次第に書物多くなりて、孔子の時には六経みな備はりたり、孔門の教へ文と行と忠と信との四なり、文は六経の文なり、行は性にしたがふ道の行ひなり、忠信は自満の心根をたちすてゝ誠の道を求め、明徳を明にする工夫なり、此四に本末衡鑑の差別あり、忠信は根本なり行は幹梢なり、文は忠信と行との鑑なり、六経の文をよみその本意を講明してかゞみと定め、根本幹梢の工夫をよくつとめて、明徳の宝珠をみがくものなり、聖人のましまして直におしへ給ふにさへ、かくの如し、まして末代聖賢のましまさぬ時に、鑑とさだむる聖経賢伝をすてゝ講ぜず、暗く迷ひたる心まかせて学問したるが、よきなといへるは、灯をすてゝ暗室に物をたずぬる如し。

書き下し

次第に書物多くなりて、孔子の時には六経みな備はりたり、孔門の教へ文と行と忠と信との四なり、文は六経の文なり、行は性にしたがふ道の行ひなり、忠信は自満の心根をたちすてゝ誠の道を求め、明徳を明にする工夫なり、此四に本末衡鑑の差別あり、忠信は根本なり行は幹梢なり、文は忠信と行との鑑なり、六経の文をよみその本意を講明してかゞみと定め、根本幹梢の工夫をよくつとめて、明徳の宝珠をみがくものなり、聖人のましまして直におしへ給ふにさへ、かくの如し、まして末代聖賢のましまさぬ時に、鑑とさだむる聖経賢伝をすてゝ講ぜず、暗く迷ひたる心まかせて学問したるが、よきなといへるは、灯をすてゝ暗室に物をたずぬる如し。

現代語訳

次第に書物が多くなり、孔子の時には六経がみな備わった。孔門の教えは文・行・忠・信の四つである。文とは六経の文である。行とは本性に従う道の行いである。忠信とは、自満の心根を断ち捨てて誠の道を求め、明徳を明らかにする工夫である。この四つには本末と鑑の区別がある。忠信は根本であり、行は幹や梢であり、文は忠信と行との鑑である。六経の文を読み、その本意を講明して鑑と定め、根本と幹梢の工夫をよく勤めて、明徳の宝珠を磨くのである。聖人がおられて直接教えられた時でさえこのようであった。まして末代の、聖賢のおられない時に、鑑と定めるべき聖経賢伝を捨てて講じず、暗く迷った心のままに学問するのがよいなどと言うのは、灯火を捨てて暗室で物を探すようなものである」。

解説

藤樹は論語にいう孔子の四教「文・行・忠・信」を、木にたとえて整理する。根は忠信、つまり自満を捨てて誠を求める心の工夫であり、幹と梢は日々の行い、そして文すなわち経書はそれらを照らす鏡である。読書は根でも幹でもないが、鏡がなければ自分の姿は見えない。聖人が目の前にいた時代でさえ書物を鏡としたのだから、師のいない後世に経書を捨てるのは灯りを捨てて暗室を探るようなものだという。自己流の考えだけで判断を重ねるのは危うい。確かな古典を手元の灯として持つことの大切さを教えている。

この章句が説くこと

忠信明徳学問読書六経鏡

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