童子問 / 卷上
但其生質之美。雖曰可觀。然微而未著。小而未充。故聖人立敎設學。以敎人讀書學文。以著其微者。充其小者爾。然出於天下之所同然。而一毫無所增加于其間。故中庸曰。修道之謂敎。葢生質之美雖善。然非擴而充之。則不足以成德。故曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也。道雖聖人。固有所不知不能。然其本。則夫婦之愚不肖所與知能行。而無難知難行者也。學者眞能識得此理。而後可以爲學也。可知向所謂至貴至高。出於流俗。遠於人情。甚高難行者之非道也。
新字:但其生質之美。雖曰可観。然微而未著。小而未充。故聖人立教設学。以教人読書学文。以著其微者。充其小者爾。然出於天下之所同然。而一毫無所增加于其間。故中庸曰。修道之謂教。葢生質之美雖善。然非擴而充之。則不足以成徳。故曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好学也。道雖聖人。固有所不知不能。然其本。則夫婦之愚不肖所与知能行。而無難知難行者也。学者真能識得此理。而後可以為学也。可知向所謂至貴至高。出於流俗。遠於人情。甚高難行者之非道也。
書き下し
但だ其の生質の美は、観るべしと曰ふと雖も、然れども微にして未だ著れず、小にして未だ充たず。故に聖人教へを立て学を設け、人に書を読み文を学ぶことを教へて、以て其の微なる者を著し、其の小なる者を充たすのみ。然れども天下の同じく然る所に出でて、一毫も其の間に増加する所無し。故に中庸に曰く、「道を修むる之を教へと謂ふ」と。蓋し生質の美は善なりと雖も、然れども拡めて之を充たすに非ざれば、則ち以て徳を成すに足らず。故に曰く、「十室の邑、必ず忠信丘が如き者有らん。丘の学を好むに如かざるなり」と。道は聖人と雖も、固より知らず能はざる所有り。然れども其の本は、則ち夫婦の愚不肖も与に知り能く行ふ所にして、知り難く行ひ難き者無きなり。学者真に能く此の理を識得して、而る後以て学を為すべきなり。知るべし、向に所謂至貴至高、流俗に出で、人情に遠く、甚だ高くして行ひ難き者の道に非ざることを。
現代語訳
ただ、その生まれつきの美質は、見るべきものがあるとはいっても、かすかでまだ顕れておらず、小さくてまだ充ちていない。だから聖人は教えを立て学問を設け、人に書を読み文を学ぶことを教えて、そのかすかなものを顕し、その小さなものを充たすのである。しかしそれは天下の人が誰しも同じくそう思うところから出ていて、少しもその間に付け加えるものはない。だから『中庸』に「道を修めること、これを教えという」とある。思うに、生まれつきの美質は善いものではあるが、押し広げてこれを充たさなければ、徳を成就するには足りない。だから(孔子は)「十軒ほどの村にも、必ず私ほどの忠信の人はいるだろう。ただ私の学問を好むことには及ばないだけだ」と言った。道は、聖人であっても、もとより知らないこと・できないことがある。しかしその根本は、平凡な夫婦の愚かで未熟な者でも共に知り、行うことができるものであって、知りにくく行いにくいものなどないのである。学ぶ者は、本当にこの理を会得してこそ、学問をすることができる。先に述べた、特別に尊く高く、世俗を超え、人情から遠く、非常に高くて行いがたいものが道ではないことを知るべきである。
解説
この章句が説くこと
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『童子問』卷上問ふ、忠信は固より美徳たり。然れども信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊なり。則ち又未だ必ずしも蔽無からず。曰く、然り。語に曰く、「信、義に近ければ、言復むべし」と。孟子曰く、「大人は、言必ずしも信ならず、行ひ必ずしも果ならず、唯義の在る所のままにす」と。蓋し徒に信を好みて義に合はざれば、必ず道を害す。然れども十分に通徹し、必ず忠に必ず信にして、而る後に以て此の言を為すべし。若し内に忠信を尽くさず、少しの疎漏有れば、則ち先づ義を併せて之を失ふ。何の学問か之有らん。蓋し物に接するの間、欺かず詐らず、十分真実にして、堅く執りて回らざる、忠信の謂なり。千変万化、機に臨みて宜しきを制し、取捨失はざる、義の功なり。忠信は万事の根本、義は学問の大用なり。故に学者は当に忠信を以て基と為して、義以て之を制すべし。故に曰く、「忠信を主とし義に従ふは、徳を崇くするなり」と。夫子も亦嘗て曰く、「十室の邑、必ず忠信丘が如き者有らん。丘の学を好むに如かざるなり」と。忠信は固より美徳たり、然れども学びて以て之を成さざれば、則ち善と為すに足らざるを言ふなり。此れ亦学者の当に慮りを弾くすべき所なり。
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『童子問』卷下問ふ、天下の善、如何なるをか最と為す、と。曰く、好学を最と為す。穎敏之に次ぎ、材幹又之に次ぐ。蓋し好学の益は、深くして測るべからず、高くして及ぶべからず。天下の材幹穎敏を極むと雖も、皆及ばざる所なり。故に好学は天下に優れり。孔門の諸子、聡明は顔子に若くは莫し。然れども夫子其の聡明を称せずして、特に其の好学を称す。中庸に曰く、舜は問ふことを好みて、好んで邇言を察す、と。孟子舜を称して曰く、耕稼陶漁より以て帝と為るに至るまで、人に取るに非ざる者無し、と。又曰く、一善言を聞き、一善行を見るに及びては、江河を決するが若く、沛然として之を能く禦ぐ莫きなり、と。子思・孟子皆其の聖を称せずして、一は問ふを好むを称し、一は人に取るに非ざる者無きを称す。好学の天下に優れるを見るべし。人皆聡明の貴ぶべきを知りて、好学の功、聡明に倍すること実に万万なるを知らざるなり。聡明の人に如かざるを患へんよりは、自ら其の好学の志を篤くするに如かざるなり。
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『童子問』卷上問ふ、先生屢々道の易知易行を明らかにす。然るに今儒を業とする者、皆其の入り難きに苦しむは、何ぞや。曰く、人の学問に於ける、之を視て以て一種至貴至高、流俗に出で、人情に遠き、甚だ高くして行ひ難きの事と為す。此れ其の人を苦難せしむる所以なり。夫れ聖人の教へを設くるや、人に因りて以て教へを立て、教へを立てて以て人を駆らず。造作する所無く、添飾する所無く、人心の同じく然る所に出でて、強ふる所有るに非ざるなり。夫の孝弟忠信の人の若きは、天下皆以て善と為し、皆以て美と為して、敢へて議する者無し。此れ即ち是れ学なり。此の外に更に所謂学問なる者無きなり。村畝の野夫、商販奴隷の賤も、或いは孝友廉直天性に出でて、士人の及ばざる所の者有り。或いは学問に由らずして、信義遜譲、澹泊自ら治め、慷慨義に赴く者、亦往往之有り。此れ反つて是れ学問の基本なり。所謂学問とは、此を充たすのみ。
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『翁問答』下卷之本次第に書物多くなりて、孔子の時には六経みな備はりたり、孔門の教へ文と行と忠と信との四なり、文は六経の文なり、行は性にしたがふ道の行ひなり、忠信は自満の心根をたちすてゝ誠の道を求め、明徳を明にする工夫なり、此四に本末衡鑑の差別あり、忠信は根本なり行は幹梢なり、文は忠信と行との鑑なり、六経の文をよみその本意を講明してかゞみと定め、根本幹梢の工夫をよくつとめて、明徳の宝珠をみがくものなり、聖人のましまして直におしへ給ふにさへ、かくの如し、まして末代聖賢のましまさぬ時に、鑑とさだむる聖経賢伝をすてゝ講ぜず、暗く迷ひたる心まかせて学問したるが、よきなといへるは、灯をすてゝ暗室に物をたずぬる如し。
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