弁名 / 忠信
忠信連言。亦以爲人謀與人言者言之。如主忠信。亦以此爲主也。忠信之人。亦謂能此之人也。曰主忠信。徙義。曰忠信之人。可以學禮。禮義者。先王之道也。忠信者。中庸之德也。登高必自卑。行遠必自邇。故學先王之道。必以忠信爲基。如易文言曰。忠信。所以進德也。脩辭立其誠。所以居業也。脩辭謂學詩書也。立其誠謂學禮樂也。詩書者義之府也。故與徙義可以學禮。其意相發。孔子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好學也。則雖有忠信。不學未免爲鄕人也。祇學先王之道。不依中庸之德。則基之不立。欲行遠登高亦不可得矣。是孔門所以貴忠信之意也。
新字:忠信連言。亦以為人謀与人言者言之。如主忠信。亦以此為主也。忠信之人。亦謂能此之人也。曰主忠信。徙義。曰忠信之人。可以学礼。礼義者。先王之道也。忠信者。中庸之徳也。登高必自卑。行遠必自邇。故学先王之道。必以忠信為基。如易文言曰。忠信。所以進徳也。脩辞立其誠。所以居業也。脩辞謂学詩書也。立其誠謂学礼楽也。詩書者義之府也。故与徙義可以学礼。其意相発。孔子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好学也。則雖有忠信。不学未免為郷人也。祇学先王之道。不依中庸之徳。則基之不立。欲行遠登高亦不可得矣。是孔門所以貴忠信之意也。
書き下し
忠信連ね言ふも、亦た人の為に謀り人と言ふ者を以て之を言ふ。「忠信を主とす」の如きも、亦た此を以て主と為すなり。「忠信の人」も、亦た能く此くする人を謂ふなり。「忠信を主とし、義に徙る」と曰ひ、「忠信の人、以て礼を学ぶべし」と曰ふ。礼義は先王の道なり。忠信は中庸の徳なり。高きに登るは必ず卑きよりし、遠きに行くは必ず邇きよりす。故に先王の道を学ぶには、必ず忠信を以て基と為す。易の文言に「忠信は徳を進むる所以なり。辞を脩め其の誠を立つるは、業に居る所以なり」と曰ふが如し。辞を脩むとは詩書を学ぶを謂ふなり。其の誠を立つとは礼楽を学ぶを謂ふなり。詩書は義の府なり。故に「義に徙る」「以て礼を学ぶべし」と、其の意相発す。孔子曰く、「十室の邑、必ず忠信丘が如き者有らん。丘の学を好むに如かざるなり」と。則ち忠信有りと雖も、学ばざれば未だ郷人たるを免れざるなり。祇だ先王の道を学ぶも、中庸の徳に依らざれば、則ち基立たず、遠きに行き高きに登らんと欲するも亦た得べからず。是れ孔門の忠信を貴ぶ所以の意なり。
現代語訳
「忠信」と並べて言う場合も、やはり人のために計り事をし、人と言葉を交わす場面について言っている。「忠信を主とする」というのも、これを主とするということであり、「忠信の人」も、これができる人のことである。(論語に)「忠信を主として義に移る」とあり、(礼記に)「忠信の人は礼を学ぶことができる」とある。礼義とは先王の道であり、忠信とは中庸の徳(誰にでも常に行える徳)である。高く登るには必ず低いところから、遠くへ行くには必ず近いところから始める。だから先王の道を学ぶには、必ず忠信を土台とする。易の文言伝に「忠信は徳を進める手立てであり、辞を修めて誠を立てるのは業に安んじる手立てである」とあるのと同じである。辞を修めるとは詩経・書経を学ぶことで、誠を立てるとは礼楽を学ぶことである。詩書は義の蔵である。だから「義に移る」と「礼を学ぶことができる」とは互いに意味を明かし合っている。孔子は「十軒ほどの村にも、私ほど忠信な者はきっといる。ただ私ほど学問を好まないだけだ」と言った。つまり忠信があっても、学ばなければ村の凡人にとどまる。逆に先王の道を学んでも、中庸の徳に拠らなければ土台が立たず、遠くへ行き高く登ろうとしてもかなわない。これが孔子の門で忠信を重んじた理由である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『弁名』中庸和衷中庸・中和と曰ふが如きは、皆徳の名なり。中庸は、甚だ高からずして常に行ふべき者を謂ふ。孝弟忠信の如き是れなり。孔子の時、礼楽興らずして、民中庸の徳有ること鮮し。故に孔門の学は、中庸を以て要と為す。諸を「遠きに行くは必ず邇きよりし、高きに登るは必ず卑きよりす」に辟ふ。所謂高明・精微・広大なる者は、皆中庸より之を導く。故に子思曰く「中庸に道る」と。中庸の徳有りと雖も、苟も道を学ばざれば、則ち以て君子と為すに足らず。故に孔子は民を以て之を言ふ。又た「小人の中庸」及び「中庸を択ぶ」の文有り。戦国の時、又た「其の材中庸に及ばず」の言有り。世俗流伝して、其の本義に非ずと雖も、亦た以て古言を見るべきのみ。庸の字の如きは、楽徳に亦た祇庸有り。之を神祇に用ふる者を祇と為し、之を民に用ふる者を庸と為す。書の所謂「庸庸祇祇」も亦た然り。民の功を庸と曰ふ。豈に易らざるの義ならんや。宋儒は辞に昧く、務めて精微の解を為し、亦た以て聖人の道に命く。誤れり。
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『童子問』卷上問ふ、忠信は固より美徳たり。然れども信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊なり。則ち又未だ必ずしも蔽無からず。曰く、然り。語に曰く、「信、義に近ければ、言復むべし」と。孟子曰く、「大人は、言必ずしも信ならず、行ひ必ずしも果ならず、唯義の在る所のままにす」と。蓋し徒に信を好みて義に合はざれば、必ず道を害す。然れども十分に通徹し、必ず忠に必ず信にして、而る後に以て此の言を為すべし。若し内に忠信を尽くさず、少しの疎漏有れば、則ち先づ義を併せて之を失ふ。何の学問か之有らん。蓋し物に接するの間、欺かず詐らず、十分真実にして、堅く執りて回らざる、忠信の謂なり。千変万化、機に臨みて宜しきを制し、取捨失はざる、義の功なり。忠信は万事の根本、義は学問の大用なり。故に学者は当に忠信を以て基と為して、義以て之を制すべし。故に曰く、「忠信を主とし義に従ふは、徳を崇くするなり」と。夫子も亦嘗て曰く、「十室の邑、必ず忠信丘が如き者有らん。丘の学を好むに如かざるなり」と。忠信は固より美徳たり、然れども学びて以て之を成さざれば、則ち善と為すに足らざるを言ふなり。此れ亦学者の当に慮りを弾くすべき所なり。
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『翁問答』下卷之本次第に書物多くなりて、孔子の時には六経みな備はりたり、孔門の教へ文と行と忠と信との四なり、文は六経の文なり、行は性にしたがふ道の行ひなり、忠信は自満の心根をたちすてゝ誠の道を求め、明徳を明にする工夫なり、此四に本末衡鑑の差別あり、忠信は根本なり行は幹梢なり、文は忠信と行との鑑なり、六経の文をよみその本意を講明してかゞみと定め、根本幹梢の工夫をよくつとめて、明徳の宝珠をみがくものなり、聖人のましまして直におしへ給ふにさへ、かくの如し、まして末代聖賢のましまさぬ時に、鑑とさだむる聖経賢伝をすてゝ講ぜず、暗く迷ひたる心まかせて学問したるが、よきなといへるは、灯をすてゝ暗室に物をたずぬる如し。
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『囲炉夜話』第百五十四則・生資の高きは忠信に在り生資の高きは忠信に在り、機巧に關はるに非ず。學業の美は德行に於いてし、僅かに文章のみならず。
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『慎思録』巻之六吾が夫子は文行忠信を以て教へと為し、且つ屢忠信を主とすることを言ふ。蓋し学問の道は、文を学びて以て道を明らかにし、力行して以て善を為し、忠信を主として以て誠を立つ。此の三者、一を闕くべからず。蓋し文行に非ずば、則ち理を窮め善を為すこと能はず。忠信に非ずば、則ち文行も亦進益を得ず、皆虚妄なるのみ。蓋し人道は只忠信に在り。忠信ならずば徳を立つるの基無し。故に易に曰く、忠信は徳に進む所以なりと。郷里の常人と雖も、苟も忠信無くば、則ち世に立つべからず。況んや君子の道をや。此の故に君子は之を誠にするを貴しと為す。
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『童子問』卷上故に孔子曰く、中庸の徳為るや、其れ至れるかな、民鮮きこと久しと。至れりとは、子必ず想ふ、耳目の見聞する所を外にして、更に至貴至高・光明閃爍・驚くべく楽しむべきの理有らんと。非なり。天地の間は、唯だ一つの実理のみ。更に奇特無し。生民有りてより以来、君臣有り、父子有り、夫婦有り、昆弟有り、朋友有り。相親しみ相愛し、相従ひ相聚まる。善なる者は以て善と為し、悪なる者は以て悪と為し、是なる者は以て是と為し、非なる者は以て非と為す。万古の前も此の如く、万古の後も亦た此の如し。子能く孝弟忠信にして、身を修め業を勤め、夙夜懈らざれば、則ち自ら天道に合し、人倫に宜しくして、人為る所以を失ふに至らず。詩に曰く、永く言に命に配し、自ら多福を求むと。或いは人至貴至高・光明閃爍・驚くべく楽しむべきの理を以て、汝に説き与ふる者有らば、野狐山鬼の汝を魅するに非ずんば、必ず是れ邪説の魁なり。謹んで聴くこと勿かれ。
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