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翁問答 / 下卷之本

體充問曰、學問はよきものなり、しかれども多くはいらざる事と云人多し、是はきこえたるやうに存候はいかゞ。師の曰、それは贋の學問をすきて、心たて行儀むざとなる人あるを見て、左樣のあやまりたるとりさたを爲せり、それはたとへば家のやけたるを見て、火はよきものなれども、少し用ひたるがよし、多くいらざるものなりと云が如し、正眞の學問は食物をにる火燈の如くなれば、すこしにて用に立がたし、贋の學問は家をやく火の如くなれば、少にても災ひになるものなり、贋の學問をしてあしくなる人を見て、正眞の學問をきらふは、家をやく火を見て食物を烹火ともしびを嫌にことならず、此譬にてよくよく得心あるべし。

新字:体充問曰、学問はよきものなり、しかれども多くはいらざる事と云人多し、是はきこえたるやうに存候はいかゞ。師の曰、それは贋の学問をすきて、心たて行儀むざとなる人あるを見て、左様のあやまりたるとりさたを為せり、それはたとへば家のやけたるを見て、火はよきものなれども、少し用ひたるがよし、多くいらざるものなりと云が如し、正真の学問は食物をにる火灯の如くなれば、すこしにて用に立がたし、贋の学問は家をやく火の如くなれば、少にても災ひになるものなり、贋の学問をしてあしくなる人を見て、正真の学問をきらふは、家をやく火を見て食物を烹火ともしびを嫌にことならず、此譬にてよくよく得心あるべし。

書き下し

体充問曰、学問はよきものなり、しかれども多くはいらざる事と云人多し、是はきこえたるやうに存候はいかゞ。師の曰、それは贋の学問をすきて、心たて行儀むざとなる人あるを見て、左様のあやまりたるとりさたを為せり、それはたとへば家のやけたるを見て、火はよきものなれども、少し用ひたるがよし、多くいらざるものなりと云が如し、正真の学問は食物をにる火灯の如くなれば、すこしにて用に立がたし、贋の学問は家をやく火の如くなれば、少にても災ひになるものなり、贋の学問をしてあしくなる人を見て、正真の学問をきらふは、家をやく火を見て食物を烹火ともしびを嫌にことならず、此譬にてよくよく得心あるべし。

現代語訳

體充が問う。「学問はよいものだが、多くは要らないものだと言う人が多い。これはもっともなように思うが、どうか」。師が答える。「それは、にせの学問を好んで心だても行儀もでたらめになった人がいるのを見て、そのような誤った評判をしているのである。たとえば家が焼けたのを見て、火はよいものだが少し使うのがよく、多くは要らないものだと言うようなものだ。本当の学問は食物を煮る火や灯火のようなものだから、少しでは役に立たない。にせの学問は家を焼く火のようなものだから、少しでも災いになる。にせの学問をして悪くなった人を見て本当の学問を嫌うのは、家を焼く火を見て、食物を煮る火や灯火まで嫌うのと変わらない。このたとえでよくよく納得するがよい」。

解説

「学問はほどほどでよい」という世評に対し、藤樹は火のたとえで答える。悪いのは学問そのものではなく、家を焼く火のような「にせの学問」である。本当の学問は煮炊きや灯りの火と同じで、少しでは役に立たず、多いほど暮らしを支える。藤樹は近江聖人と呼ばれた日本陽明学の祖で、学問を人の生き方を正す営みと考えた。学んだせいで傲慢になった人を見て学びそのものを避けるのは、道具の使い方の誤りを道具のせいにするのと同じである。知識を得て人柄が悪くなるなら、それは学び方の問題だと知っておきたい。

この章句が説くこと

学問にせの学問火のたとえ修養心本当の学び

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