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翁問答 / 序

隣里に天君とて逸民とおぼしき老翁ありけると友の語りし儘訪ひたづねて、杖を取て見へける、我眼力伯樂ならねば、騏駑の分ちは知らざれ共、威儀いとけだかく、人相和厚にして謙遜なれば、俗儒の意氣たくましく、口氣たかぶるに違ひ心ならず慕しく敬れて暇の日は常に傍にと雖、心に問べき貯へなければ、只山賤の花に向へるに異らず門下に體充とて俊秀なる人有て、平日疑問論難止む時なし、傍にて聞と雖、我心の及ばぬ際は記憶すること不能、心の粗通する事あれば、退て倭語にて書付け遺忘に備へぬ、斯くして年を積りぬれば、箇條も數多になり、心に守り身に行べき道理も少し、開悟に似たる樣にあれば、若し又我如きの愚者あらば、萬一工夫の助けにも成る可きかと改めうつして、翁問答と題號して、巾笥にかくし置ける、言いやしく理きこへがたけれ共、有道に付て正す可き程の事ならねば、只愚者の書付けたる儘にして、翁の本意に違ふ處多くあるべし、若讀人あらば、辭にて志をそこなはずば、我人の大幸たる可き乎。

新字:隣里に天君とて逸民とおぼしき老翁ありけると友の語りし儘訪ひたづねて、杖を取て見へける、我眼力伯楽ならねば、騏駑の分ちは知らざれ共、威儀いとけだかく、人相和厚にして謙遜なれば、俗儒の意気たくましく、口気たかぶるに違ひ心ならず慕しく敬れて暇の日は常に傍にと雖、心に問べき貯へなければ、只山賤の花に向へるに異らず門下に体充とて俊秀なる人有て、平日疑問論難止む時なし、傍にて聞と雖、我心の及ばぬ際は記憶すること不能、心の粗通する事あれば、退て倭語にて書付け遺忘に備へぬ、斯くして年を積りぬれば、箇条も数多になり、心に守り身に行べき道理も少し、開悟に似たる様にあれば、若し又我如きの愚者あらば、万一工夫の助けにも成る可きかと改めうつして、翁問答と題号して、巾笥にかくし置ける、言いやしく理きこへがたけれ共、有道に付て正す可き程の事ならねば、只愚者の書付けたる儘にして、翁の本意に違ふ処多くあるべし、若読人あらば、辞にて志をそこなはずば、我人の大幸たる可き乎。

書き下し

隣里に天君とて逸民とおぼしき老翁ありけると友の語りし儘訪ひたづねて、杖を取て見へける、我眼力伯楽ならねば、騏駑の分ちは知らざれ共、威儀いとけだかく、人相和厚にして謙遜なれば、俗儒の意気たくましく、口気たかぶるに違ひ心ならず慕しく敬れて暇の日は常に傍にと雖、心に問べき貯へなければ、只山賤の花に向へるに異らず門下に体充とて俊秀なる人有て、平日疑問論難止む時なし、傍にて聞と雖、我心の及ばぬ際は記憶すること不能、心の粗通する事あれば、退て倭語にて書付け遺忘に備へぬ、斯くして年を積りぬれば、箇条も数多になり、心に守り身に行べき道理も少し、開悟に似たる様にあれば、若し又我如きの愚者あらば、万一工夫の助けにも成る可きかと改めうつして、翁問答と題号して、巾笥にかくし置ける、言いやしく理きこへがたけれ共、有道に付て正す可き程の事ならねば、只愚者の書付けたる儘にして、翁の本意に違ふ処多くあるべし、若読人あらば、辞にて志をそこなはずば、我人の大幸たる可き乎。

現代語訳

近隣の里に天君という世を離れた隠者らしい老翁がいると友が語ったので、そのまま訪ねて行き、礼をとって面会した。私の眼力は伯楽ほどではないので、名馬と駄馬の見分けはつかないが、その立ち居振る舞いはたいそう気高く、人相は温和で謙虚であったので、意気盛んで口ぶりの高ぶった俗儒とは違い、心ならずも慕わしく敬われて、暇な日にはいつも傍らに控えていた。しかし心に問うべき蓄えもないので、ただ山人が花に向かっているのと変わらなかった。門下に体充という秀才がいて、日頃から疑問を出して論じ合うことが絶えなかった。傍らで聞いていても私の心が及ばない所は記憶できなかったが、心にあらまし通じた所は退いて和文で書き付け、忘れないように備えた。こうして年を重ねると箇条も多くなり、心に守り身に行うべき道理も少し悟ったような気がしたので、もし私のような愚者がいれば万一工夫の助けにもなろうかと書き改めて『翁問答』と題し、箱の中にしまっておいた。言葉は卑しく理も聞き取りにくいが、道を知る人に正してもらうほどのものでもないので、愚者が書き付けたままにしてあり、翁の本意に違う所も多いだろう。もし読む人があれば、言葉にとらわれて志を損なうことがなければ、私にとっても人にとっても大きな幸いである。

解説

天君と体充の問答を傍らの者が筆記したという、本書の成り立ちを語る段である。天君・体充は架空の人物とみられ、実際には藤樹自身の思想を対話形式で示したものとされる。気高く謙虚な老翁と、口ぶりの高ぶった俗儒との対比は、本書全体を通じた「真の学問と贋の学問」の主題を先取りしている。和文で書き付けたのは、漢文を読めない人にも道を伝えたいという藤樹の姿勢の表れである。「言葉にとらわれず志をくめ」という結びは、読み手の態度を問うている。文書や助言を受け取るとき、表現の巧拙より書き手の意図をくむ読み方は、今の職場でも大切である。

この章句が説くこと

学問謙遜心天君体充翁問答

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