翁問答 / 下卷之本
文盲に御自滿のさぶらひ衆、せめて義經公辨慶などの爪のさき程なりとも眞似をめされ候はゞ、其譽ある可し、たゞ文盲一偏の御自滿にてはよも士とは云がたし、文盲なるものが必ず武篇よくば、田をうち草をかる田夫野人、薪とる山がつ、路頭にさすらふ乞食など、文盲第一のものどもなり、箇樣の者どもみなよき武篇にてありなんや、箇樣のたとへあまりけはしく聞へぬれとも、今時分此まよひふかく、大かたのたとへにては、心盲の眠りさめがたき故に、聲をはげまして呼びさますなり、前かども論ずる如く、いかやうなる者が武篇よき、いかやうなる者が武篇あしきなどいへるは、皆得がたのひがこと、或は株を守る愚痴よりおこる迷ひなり、文藝ある人に義經公辯慶などの如き武篇よきもあり、又臆病なるもあり、文盲なる人に臆病なるもあるべし、またけなげなるもあらん、只勇あるものが武篇よきと知べし、むかし今のためしを能く考へて、學問が武篇のさまたげになるといへるきたなき心根を察すべし、
新字:文盲に御自満のさぶらひ衆、せめて義経公弁慶などの爪のさき程なりとも真似をめされ候はゞ、其誉ある可し、たゞ文盲一偏の御自満にてはよも士とは云がたし、文盲なるものが必ず武篇よくば、田をうち草をかる田夫野人、薪とる山がつ、路頭にさすらふ乞食など、文盲第一のものどもなり、箇様の者どもみなよき武篇にてありなんや、箇様のたとへあまりけはしく聞へぬれとも、今時分此まよひふかく、大かたのたとへにては、心盲の眠りさめがたき故に、声をはげまして呼びさますなり、前かども論ずる如く、いかやうなる者が武篇よき、いかやうなる者が武篇あしきなどいへるは、皆得がたのひがこと、或は株を守る愚痴よりおこる迷ひなり、文芸ある人に義経公弁慶などの如き武篇よきもあり、又臆病なるもあり、文盲なる人に臆病なるもあるべし、またけなげなるもあらん、只勇あるものが武篇よきと知べし、むかし今のためしを能く考へて、学問が武篇のさまたげになるといへるきたなき心根を察すべし、
書き下し
文盲に御自満のさぶらひ衆、せめて義経公弁慶などの爪のさき程なりとも真似をめされ候はゞ、其誉ある可し、たゞ文盲一偏の御自満にてはよも士とは云がたし、文盲なるものが必ず武篇よくば、田をうち草をかる田夫野人、薪とる山がつ、路頭にさすらふ乞食など、文盲第一のものどもなり、箇様の者どもみなよき武篇にてありなんや、箇様のたとへあまりけはしく聞へぬれとも、今時分此まよひふかく、大かたのたとへにては、心盲の眠りさめがたき故に、声をはげまして呼びさますなり、前かども論ずる如く、いかやうなる者が武篇よき、いかやうなる者が武篇あしきなどいへるは、皆得がたのひがこと、或は株を守る愚痴よりおこる迷ひなり、文芸ある人に義経公弁慶などの如き武篇よきもあり、又臆病なるもあり、文盲なる人に臆病なるもあるべし、またけなげなるもあらん、只勇あるものが武篇よきと知べし、むかし今のためしを能く考へて、学問が武篇のさまたげになるといへるきたなき心根を察すべし、
現代語訳
文盲を自慢なさる武士衆よ、せめて義経公や弁慶などの爪の先ほどでも真似をなさるなら、その誉れもあろう。ただ文盲一辺倒の自慢では、とても武士とは言いがたい。文盲な者が必ず武篇によいのなら、田を耕し草を刈る田夫野人、薪を取る山人、路頭にさすらう乞食などは、文盲第一の者どもである。このような者どもがみなよい武篇であろうか。このようなたとえはあまりに険しく聞こえるが、今時分はこの迷いが深く、並のたとえでは心盲の眠りが覚めがたいので、声を励まして呼び覚ますのである。前にも論じたように、どのような者が武篇によく、どのような者が武篇に悪いなどと言うのは、みな片寄った僻事、あるいは株を守る愚痴から起こる迷いである。文芸のある人にも義経公・弁慶のように武篇のよい者もあれば、臆病な者もある。文盲な人にも臆病な者もあろうし、また健気な者もあろう。ただ勇のある者が武篇によいと知るべきである。昔と今の例をよく考えて、学問が武篇の妨げになると言う汚い心根を察するべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『翁問答』上卷之末体充曰、沈勇が世間に多しと仰せ候へば、見掛のぬるきものを武用にかいがいしかるべきと見たて候はんや。師の曰、それも鼻の先なる心得にて候、沈勇が世間に多しと云ふは、見掛鼻の先の目論にては知れぬものなりといふ事なり、見掛のぬるきものに臆病なるもあるべし、又けなげなるもある可し、見掛の猛きに臆病なるもあるべし、又かいがいしきもあるべし、只見掛に泥まずその心の勇怯を察するが目明の眼にて候。
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『童子問』卷下問ふ、王陽明、徐成之に答ふる二書に自ら謂ふ、天下朱を是とし陸を非とすること、論定まること既に久し。一旦之に反するは難しと為す。姑く調停両可の説を為して、人をして自ら思うて之を得しむと。如何。曰く、夫れ勇は断に生じ、断は明に生じ、明は智に生じ、智は学を以て大なり。苟も之を知ること明らかならば、則ち是を是とし非を非とし、一刀両断にして、少しも仮借することを得ず。故に孟子曰く、予豈に弁を好まんや、予已むことを得ざるなりと。陽明の人と為りや、聡明絶倫にして、古今に縦にす。二公と雖も、及ばざること遠く甚だし。然れども学問空疎にして、磨励の功甚だ少なし。而して其の学本禅学に得て、孔孟の宗旨に於ては、実に数塵なり。故に其の書含糊衡決にして、二公の肯綮に中ること多きを得ず。朱門の為に廻護するに似たり。但書中の所謂重脊にして叛孔を厭はずといふ数句は、実に今の学者の真病に中る。
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『翁問答』下卷之本うまれつき勇あるものは正真の儒学をつとめて、其勇を仁義の勇となし、生れつき勇なきものも又正真の儒学をつとめて本心に具有したる仁義の勇をあきらかにせよと教たまふ義なり、此等の聖謨をよくよく体認して、武篇をたしなまんと思ふ士は、志しあるべき事なり、本来軍法軍礼武篇のたしなみ諸士の作法のおきてみな儒道の一色にして、聖人のさだめ給ふ天理なれば、士たるものが、儒道をそしり、儒学をするは士のわざならずなどいへるはまことに無下に無案内なることなれば、其はじをしるべし。
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『慎思録』巻之二多念多言多事、三者は最も学を為すを害す。蓋し専一ならざれば、則ち直遂すること能はず。故に学者須らく三省を守ることを要すべし。一に曰く念を省く、二に曰く言を省く、三に曰く事を省く。然れども三者は人事の当然なる者なり。豈に妄りに省き強ひて排すべけんや。只だ事の当に念ふべき所にして之を念へば、則ち其の念ふ所自ら寡し。是れ念を省くの道なり。言を省き事を省くも亦た然り。且つ多事は人の免れ難き所なり。但だ其の要約なる者を択ぶべし。事を好むを要せずして可なり。又逡巡退縮して事を畏れ、当に為すべくして為さざる者有り。此れ亦た勇無き者と謂ふべきなり。
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『童子問』卷下問ふ、曾子子襄に語りて曰く、自ら反みて縮ければ、千万人と雖も吾往かんと。夫子史魚を称して曰く、直なるかなと。亦前に論ずる所と相反す。如何。曰く、是れ勇の為なり。勇は義の発なり。義は聖人の大用なり。然れども義を好む者は必ず命を犯し、命を言ふ者は義を尽くさず。義命合一する、是れを君子の全徳と為す。大勇有り大義有りて、韜晦含蔵し、形跡を露さざる者に非ざれば、則ち与に君子の域に入るに足らず。是れ学問の準的と為す。区区たる諸生の能く識る所に非ざるなり。故に至道は竝び行はれて相悖らずして、学問の極功と為る。難いかな。
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『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段多しと雖も亦奚を以て為さん、と。専対するは心なり。詩三百を誦するは文なり。和漢ともに小事を見て、大事を見る者少なし。陋しいかな文学に伐る。文芸も道の助けとなれば、舎つることにはあらず。愚、文学拙きを以て悔ゆといへども、民間に産まれ、家貧しくして学ぶべき暇なく、四十余の比より此の道に志す。如何して文学までに至るべき。只恥づべきは、何方へ一簡の饋るとも、文字に於いて誤ることぞ多かるべし。見る人これを用捨有らんことを願ふ。
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