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翁問答 / 上卷之末

體充曰、天道は福善禍淫とて、善をなす人には福をあたへ、あくをなすものには禍をあたへ給ふと承はり及び候に、善人も仕合あしく、或はわざはひにあふ事あり、惡人も或は仕合よく、かへつてさいはひを得るもの多く候は、なにたる道理にておはしまし候や。師の曰、よきうたがひにて候、是も易理をよく知らざれば、辯へがたき理にて候、天道流行して造化發育したまふ、その賦與の分數を命と名く、天地の間にみちみちて、聲色貌象あるもの、皆天然一定の分數あり、しかるゆへに人間一生涯のあひだ、あふところの境界、吉凶禍福一飮一食にいたるまで、悉く命にあらさるはなし、皆これ天道の流行なりといへども、此命に本末正變あり、正變に虛實の勝負あり、

新字:体充曰、天道は福善禍淫とて、善をなす人には福をあたへ、あくをなすものには禍をあたへ給ふと承はり及び候に、善人も仕合あしく、或はわざはひにあふ事あり、悪人も或は仕合よく、かへつてさいはひを得るもの多く候は、なにたる道理にておはしまし候や。師の曰、よきうたがひにて候、是も易理をよく知らざれば、弁へがたき理にて候、天道流行して造化発育したまふ、その賦与の分数を命と名く、天地の間にみちみちて、声色貌象あるもの、皆天然一定の分数あり、しかるゆへに人間一生涯のあひだ、あふところの境界、吉凶禍福一飲一食にいたるまで、悉く命にあらさるはなし、皆これ天道の流行なりといへども、此命に本末正変あり、正変に虚実の勝負あり、

書き下し

体充曰、天道は福善禍淫とて、善をなす人には福をあたへ、あくをなすものには禍をあたへ給ふと承はり及び候に、善人も仕合あしく、或はわざはひにあふ事あり、悪人も或は仕合よく、かへつてさいはひを得るもの多く候は、なにたる道理にておはしまし候や。師の曰、よきうたがひにて候、是も易理をよく知らざれば、弁へがたき理にて候、天道流行して造化発育したまふ、その賦与の分数を命と名く、天地の間にみちみちて、声色貌象あるもの、皆天然一定の分数あり、しかるゆへに人間一生涯のあひだ、あふところの境界、吉凶禍福一飲一食にいたるまで、悉く命にあらさるはなし、皆これ天道の流行なりといへども、此命に本末正変あり、正変に虚実の勝負あり、

現代語訳

體充が言う。「天道は善に福し淫に禍すといって、善をなす人には福を与え、悪をなす者には禍を与えなさると承っておりますのに、善人も不運で、あるいは災いにあうことがあり、悪人もあるいは運がよく、かえって幸いを得る者が多いのは、どういう道理でございますか。」師は言う。「よい疑いである。これも易の理をよく知らなければ、わきまえがたい理である。天道が流行して造化発育なさる、その賦与される分数を命と名づける。天地の間に満ち満ちて、声・色・姿・形のあるものには、みな天然の一定の分数がある。それゆえ人間一生の間に出会う境遇は、吉凶禍福から一飲一食に至るまで、ことごとく命でないものはなく、みな天道の流行である。とはいえ、この命には本末・正変があり、正変には虚実の勝ち負けがある。」

解説

善人が報われず悪人が栄えるように見えるという疑問は、司馬遷が史記伯夷列伝で天道は是か非かと問うたように、古来繰り返されてきた難問である。藤樹はこれに易の理で答えようとする。まず天道の流行によって万物に与えられた分数を命と定め、一飲一食まで命でないものはないとする。そのうえで命には本末・正変があり、虚と実のせめぎ合いがあると議論の枠組みを示す。理不尽な結果を前に天を疑う前に仕組みを冷静に見ようとする態度は、努力と成果が釣り合わないと感じるときの支えになる。

この章句が説くこと

天命福善禍淫易運命命天道

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