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翁問答 / 上卷之末

體充曰、易學と仰せられ候は、耆本卦など云うらなひの事にて御座候や。師の曰、それも易學の一品にて候へども、たゞ今われらが云へるは其事にてはなく候、易經の神道をさとり、我身の受用となす事にて候、この易學は孔子さへ韋編三絕と申つたへ候へば、よくよく觀察の功をつまざれば、その皮膚の會得もなりがたく候、儒書の事は申におよばず、天地の間に何にても易經の神理にもれたる事なし、又易經よりいでぬ事は一つもなく候。

新字:体充曰、易学と仰せられ候は、耆本卦など云うらなひの事にて御座候や。師の曰、それも易学の一品にて候へども、たゞ今われらが云へるは其事にてはなく候、易経の神道をさとり、我身の受用となす事にて候、この易学は孔子さへ韋編三絶と申つたへ候へば、よくよく観察の功をつまざれば、その皮膚の会得もなりがたく候、儒書の事は申におよばず、天地の間に何にても易経の神理にもれたる事なし、又易経よりいでぬ事は一つもなく候。

書き下し

体充曰、易学と仰せられ候は、耆本卦など云うらなひの事にて御座候や。師の曰、それも易学の一品にて候へども、たゞ今われらが云へるは其事にてはなく候、易経の神道をさとり、我身の受用となす事にて候、この易学は孔子さへ韋編三絶と申つたへ候へば、よくよく観察の功をつまざれば、その皮膚の会得もなりがたく候、儒書の事は申におよばず、天地の間に何にても易経の神理にもれたる事なし、又易経よりいでぬ事は一つもなく候。

現代語訳

體充が言う。「易学と仰せられたのは、筮竹や本卦などという占いのことでございますか。」師は言う。「それも易学の一種ではあるが、今われらが言っているのはそのことではない。易経の神道を悟り、わが身の受用とすることである。この易学は、孔子でさえ韋編三たび絶つと言い伝えられるほどであるから、よくよく観察の功を積まなければ、その皮膚ほどの会得さえ難しい。儒書のことは言うまでもなく、天地の間に何であれ易経の神理から漏れたものはなく、また易経から出ないものは一つもない。」

解説

藤樹は易学を占いの技術としてではなく、天地の道理を自分の生き方に生かす学問として捉えている。孔子が晩年に易を好み、竹簡を綴じる革紐が三度切れるほど読んだという韋編三絶の故事を引いて、その会得の難しさを説く。続く問答で扱われる天命や運命の議論も、この易の理を土台にしている。藤樹は易経を、あらゆる書と物事の根にある神理の書と見ていた。古典を当たる当たらないで読むのではなく、自分の判断や行動の受用として繰り返し読み込む姿勢が、学びを血肉にする近道である。

この章句が説くこと

易学易経受用学問心韋編三絶

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