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徂徠先生答問書 / 卷上

大概右の通に候へども、世の中の事、人智人力の及ばざる所有之候。こゝに至り候ては、右の分にては必勇氣くじけ申事に候。其人智人力のとゞき不申場にては、天命に打まかせ候より外更に他事無御座候。此故に勇怯の根本と申候は、天命を知ると知らぬとに落着仕候事にて御座候。世の人の富を得貴を得候を、己が智力の營にて成得たると愚なる心に存候得共、天の助を得故也と申候事をば不存候。いとなむ時は成就し、すつる時は何事も破れ候事は一定の理にて候へ共、至極の場にいたり候へば、天道の助なくて成就するといふ事は無之事に候。たとへば農民の田を耕がごとくに候。隨分に農作の力を盡し候ても、大風水旱は人力の及ばざる所明らかに候。よき人の子をそだて候には、御乳めのとをつけ候て、怪我さするなあやまちさするなと詞に詞を添へ、目に目を付重ね候へども、大名の子も怪我致し候事有之候。又賤き者の子供は、其母さへ渡世に暇なく候得ば、はだへ薄く、日に照させ雨にうたせ、心儘にくるひありかせて、誰守に付人も無之候へども、さりとて溝堀にも落ず、牛馬にも踏殺れずそだち行候を、產土神のまほりめとかや申候も、げにさる事と被存候。

新字:大概右の通に候へども、世の中の事、人智人力の及ばざる所有之候。こゝに至り候ては、右の分にては必勇気くじけ申事に候。其人智人力のとゞき不申場にては、天命に打まかせ候より外更に他事無御座候。此故に勇怯の根本と申候は、天命を知ると知らぬとに落着仕候事にて御座候。世の人の富を得貴を得候を、己が智力の営にて成得たると愚なる心に存候得共、天の助を得故也と申候事をば不存候。いとなむ時は成就し、すつる時は何事も破れ候事は一定の理にて候へ共、至極の場にいたり候へば、天道の助なくて成就するといふ事は無之事に候。たとへば農民の田を耕がごとくに候。随分に農作の力を尽し候ても、大風水旱は人力の及ばざる所明らかに候。よき人の子をそだて候には、御乳めのとをつけ候て、怪我さするなあやまちさするなと詞に詞を添へ、目に目を付重ね候へども、大名の子も怪我致し候事有之候。又賤き者の子供は、其母さへ渡世に暇なく候得ば、はだへ薄く、日に照させ雨にうたせ、心儘にくるひありかせて、誰守に付人も無之候へども、さりとて溝堀にも落ず、牛馬にも踏殺れずそだち行候を、産土神のまほりめとかや申候も、げにさる事と被存候。

書き下し

大概右の通に候へども、世の中の事、人智人力の及ばざる所有之候。こゝに至り候ては、右の分にては必勇気くじけ申事に候。其人智人力のとゞき不申場にては、天命に打まかせ候より外更に他事無御座候。此故に勇怯の根本と申候は、天命を知ると知らぬとに落着仕候事にて御座候。世の人の富を得貴を得候を、己が智力の営にて成得たると愚なる心に存候得共、天の助を得故也と申候事をば不存候。いとなむ時は成就し、すつる時は何事も破れ候事は一定の理にて候へ共、至極の場にいたり候へば、天道の助なくて成就するといふ事は無之事に候。たとへば農民の田を耕がごとくに候。随分に農作の力を尽し候ても、大風水旱は人力の及ばざる所明らかに候。よき人の子をそだて候には、御乳めのとをつけ候て、怪我さするなあやまちさするなと詞に詞を添へ、目に目を付重ね候へども、大名の子も怪我致し候事有之候。又賤き者の子供は、其母さへ渡世に暇なく候得ば、はだへ薄く、日に照させ雨にうたせ、心儘にくるひありかせて、誰守に付人も無之候へども、さりとて溝堀にも落ず、牛馬にも踏殺れずそだち行候を、産土神のまほりめとかや申候も、げにさる事と被存候。

現代語訳

おおよそは右のとおりですが、世の中のことには、人の知恵や力の及ばないところがあります。ここに至っては、右のような心得だけでは必ず勇気がくじけます。その人知人力の届かない場では、天命に任せるより他にまったく手はありません。ですから勇と怯の根本は、天命を知るか知らないかに落ち着くのです。世の人は富や地位を得ると、自分の知恵と力の営みで成し遂げたと愚かにも思い込みますが、天の助けを得たからだということを知りません。励めば成就し、投げ出せば何事も破れるのは決まった道理ですが、ぎりぎりの所に至れば、天道の助けなしに成就するということはありません。たとえば農民が田を耕すようなものです。精いっぱい農作に力を尽くしても、大風や洪水・日照りが人力の及ばないものであることは明らかです。身分の高い人が子を育てるには、乳母や守り役をつけて、怪我をさせるな、過ちをさせるなと言葉に言葉を重ね、目を幾重にも配りますが、それでも大名の子が怪我をすることがあります。また身分の低い者の子供は、母親さえ暮らしに追われて暇がないので、薄着のまま日に照らされ雨に打たれ、気ままに暴れ回り、誰も守り役がついていないのに、それでも溝や堀にも落ちず、牛馬に踏み殺されもせずに育っていきます。これを産土神(うぶすながみ、土地の守り神)のお守りなどと言うのも、なるほどもっともだと思われます。

解説

慣れで消える怖さの先に、どれほど慣れても消えない怖さがある。人の知恵と力の及ばない領域である。徂徠は、勇と怯を分ける根本は天命を知るか否かだと言い切る。成功を自分の才覚だけの成果と思う者は、思うにまかせない事態に出会うと崩れる。農民が力を尽くしても風水害は防げず、手厚く守られた大名の子も怪我をし、放っておかれた子も無事に育つ。徂徠の言う天は、理で割り切れない「活物」である。事業の成否にも運や時勢が大きく働く。尽くすべきを尽くしたうえで結果を天に預ける覚悟が、かえって胆力を生む。

この章句が説くこと

天命勇気天道人力農作答問書

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