導師導古典を学びたいすべての人に

翁問答 / 上卷之末

體充問曰、學問はさとらんためなりさとらねば學問と云にたらざるよし、承りをよび候、さとりとは如何なる事にて御座候や。師の曰、さとりのさたは言語道斷のことはりなれば、なかなか言葉にのべがたく候、その皮膚の模樣をすこしばかりたとへにてあかすべし、各々われら如き暗く迷ひたる者の心に仁義の神理をしりわきまへさるは、盲目の色かたちを見分けざる如し、しかる故に迷ひにて理にくらき者を心盲と名けたり、盲目は靑黄赤白黑の五色、禽獸草木のかたちなど耳にはきくといへども、其さだかなき色形を見分けざれば疑のはるゝ事なし、そのごとくかの迷ひたる心盲は仁義禮智信の五常天道神道運命生死などのことはり、ほゞ耳にはきくといへども、心にてその道理を知りあきらむることならざるゆへに、何れの神理にもうたがひ迷ふのみなり、

新字:体充問曰、学問はさとらんためなりさとらねば学問と云にたらざるよし、承りをよび候、さとりとは如何なる事にて御座候や。師の曰、さとりのさたは言語道断のことはりなれば、なかなか言葉にのべがたく候、その皮膚の模様をすこしばかりたとへにてあかすべし、各々われら如き暗く迷ひたる者の心に仁義の神理をしりわきまへさるは、盲目の色かたちを見分けざる如し、しかる故に迷ひにて理にくらき者を心盲と名けたり、盲目は青黄赤白黒の五色、禽獣草木のかたちなど耳にはきくといへども、其さだかなき色形を見分けざれば疑のはるゝ事なし、そのごとくかの迷ひたる心盲は仁義礼智信の五常天道神道運命生死などのことはり、ほゞ耳にはきくといへども、心にてその道理を知りあきらむることならざるゆへに、何れの神理にもうたがひ迷ふのみなり、

書き下し

体充問曰、学問はさとらんためなりさとらねば学問と云にたらざるよし、承りをよび候、さとりとは如何なる事にて御座候や。師の曰、さとりのさたは言語道断のことはりなれば、なかなか言葉にのべがたく候、その皮膚の模様をすこしばかりたとへにてあかすべし、各々われら如き暗く迷ひたる者の心に仁義の神理をしりわきまへさるは、盲目の色かたちを見分けざる如し、しかる故に迷ひにて理にくらき者を心盲と名けたり、盲目は青黄赤白黒の五色、禽獣草木のかたちなど耳にはきくといへども、其さだかなき色形を見分けざれば疑のはるゝ事なし、そのごとくかの迷ひたる心盲は仁義礼智信の五常天道神道運命生死などのことはり、ほゞ耳にはきくといへども、心にてその道理を知りあきらむることならざるゆへに、何れの神理にもうたがひ迷ふのみなり、

現代語訳

體充が問うて言った。「学問は悟るためのものであり、悟らなければ学問というに足りないと承っております。悟りとはどういうことでございますか。」師が言った。「悟りのことは言語道断(言葉で言い表せない)の道理であるから、なかなか言葉に述べがたい。その表面のありさまを少しばかりたとえで明かそう。我ら各々のような暗く迷った者の心に、仁義の神理を知りわきまえないのは、盲目の人が色や形を見分けられないようなものである。だから迷いによって道理に暗い者を心盲と名づけた。盲目の人は青・黄・赤・白・黒の五色や、鳥獣草木の形などを耳には聞くけれども、そのはっきりした色や形を見分けられないので、疑いが晴れることはない。そのように、あの迷った心盲は、仁義礼智信の五常、天道・神道・運命・生死などの道理を、ほぼ耳には聞くけれども、心でその道理を知り明らめることができないので、どの神理にも疑い迷うばかりである。」

解説

学問の目的は悟りにあると聞いた体充が、その中身を尋ねる。藤樹は、悟りは言葉では言い尽くせないとしたうえで、目の見えない人が色や形を耳で聞いても確かめられないたとえで説明する。道理を耳で聞いて知っていても、心で明らめていなければ疑いは晴れず、それを「心盲」と呼ぶのである。知識として知っていることと、腹の底から分かっていることは違うという指摘である。仕事の原則や理念も、聞いて覚えただけでは迷ったときの支えにならない。自分が本当に「見えて」いるのか、耳で聞いただけなのかを問い直したい。

この章句が説くこと

悟り心盲学問五常心良知

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る