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翁問答 / 上卷之本

師の曰、これにも心迹の差別あり、迹ばかりを見ては疑も尤にて候。心にて見候へば不審はすこしもなく候、聖賢の心は富貴を願はず貧賤をいとはず、生を好まず死を惡まず、福を求めず禍を避けず、唯身を立て道を行ひたまふ計りにて、凡夫の願ひは毛頭なければ、自ら願ひの儘にて、凡夫の願ひを思ひの儘に求め得たるよりは、一くらゐまさりたる心のたのしみ有、其上凡夫の願ふ富貴は小富貴と云てちいさき富貴也、小富貴の外に至富貴とて廣大無類なる富貴あり、此大富貴は凡夫の目には見へぬ故に求め願ふ事なし、聖賢は此の大富貴を思ひの儘に得たまふによつて小富貴をば忘れたまひて求め願ひたまはねば、疏食飮水簞瓢陋巷の貧賤に居たまひても、無上の眞樂つねに泰然とありて、凡夫の小富貴を得たる樂みと同し、口にも語るべき事にあらず、

新字:師の曰、これにも心迹の差別あり、迹ばかりを見ては疑も尤にて候。心にて見候へば不審はすこしもなく候、聖賢の心は富貴を願はず貧賤をいとはず、生を好まず死を悪まず、福を求めず禍を避けず、唯身を立て道を行ひたまふ計りにて、凡夫の願ひは毛頭なければ、自ら願ひの儘にて、凡夫の願ひを思ひの儘に求め得たるよりは、一くらゐまさりたる心のたのしみ有、其上凡夫の願ふ富貴は小富貴と云てちいさき富貴也、小富貴の外に至富貴とて広大無類なる富貴あり、此大富貴は凡夫の目には見へぬ故に求め願ふ事なし、聖賢は此の大富貴を思ひの儘に得たまふによつて小富貴をば忘れたまひて求め願ひたまはねば、疏食飲水箪瓢陋巷の貧賤に居たまひても、無上の真楽つねに泰然とありて、凡夫の小富貴を得たる楽みと同し、口にも語るべき事にあらず、

書き下し

師の曰、これにも心迹の差別あり、迹ばかりを見ては疑も尤にて候。心にて見候へば不審はすこしもなく候、聖賢の心は富貴を願はず貧賤をいとはず、生を好まず死を悪まず、福を求めず禍を避けず、唯身を立て道を行ひたまふ計りにて、凡夫の願ひは毛頭なければ、自ら願ひの儘にて、凡夫の願ひを思ひの儘に求め得たるよりは、一くらゐまさりたる心のたのしみ有、其上凡夫の願ふ富貴は小富貴と云てちいさき富貴也、小富貴の外に至富貴とて広大無類なる富貴あり、此大富貴は凡夫の目には見へぬ故に求め願ふ事なし、聖賢は此の大富貴を思ひの儘に得たまふによつて小富貴をば忘れたまひて求め願ひたまはねば、疏食飲水箪瓢陋巷の貧賤に居たまひても、無上の真楽つねに泰然とありて、凡夫の小富貴を得たる楽みと同し、口にも語るべき事にあらず、

現代語訳

師は言った。「これにも心と迹の区別がある。迹ばかりを見れば疑うのももっともである。心で見れば不審は少しもない。聖賢の心は富貴を願わず貧賤を嫌わず、生を好まず死を憎まず、福を求めず禍を避けず、ただ身を立て道を行われるばかりで、凡夫の願いはまったくないから、おのずから願いのままであり、凡夫が願いを思いのままに求め得たよりも、一段まさった心の楽しみがある。そのうえ凡夫の願う富貴は小富貴といって小さな富貴である。小富貴のほかに至富貴という広大無類の富貴がある。この大富貴は凡夫の目には見えないので、求め願うことがない。聖賢はこの大富貴を思いのままに得られるので、小富貴を忘れて求め願われない。だから粗末な飯と水、一箪の食一瓢の飲、陋巷の貧賤にあっても、この上ない真の楽しみが常に泰然としてあり、凡夫が小富貴を得た楽しみと同じように口で語れるものではない。」

解説

體充の疑いに対し、藤樹は迹ではなく心で見よと答える。聖賢はもともと富貴も長寿も願わないので、願いのないことがそのまま願いのままであり、凡夫が欲を満たす以上の楽しみがあるという逆説である。さらに世間の富貴を「小富貴」と呼び、それとは別に目に見えない「至富貴」があると説く。顔回が陋巷にあってもその楽しみを改めなかったという『論語』雍也篇の話が、ここで新しい意味を帯びる。収入や地位とは別の豊かさを知る人は、境遇に振り回されにくい。何を本当の富とするかを自分で定めることが、心の安定の土台になる。

この章句が説くこと

富貴心迹聖賢真楽顔回心

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