導師導古典を学びたいすべての人に

翁問答 / 上卷之本

親の子を慈愛するには、道藝を敎へて子の才德を成就するを本とす、當座の苦勞をいたわりて、子の願ひの儘に育てぬるを姑息の愛と云、姑息の愛は舐犢の愛とて、牛の子を育つるに假令たり、姑息の愛はさし當りては、慈愛に似たれ共、其子氣隨になりて、才も無く德も無く、禽獸に近くなりぬれば、畢竟は子を惡みて惡しき道へ引入るゝに同しき故、我身は親の身を受けて分けたれば、則親の身なり、親に受たる我身を分けと、子の身となしたる者なれば、子の身も根本は親の身なり、子をむざと育てゝ惡き道へ引入るゝは、親の身を惡道へ落すに異ならざる故に、子に能く敎へざるは大不孝の第一なり

新字:親の子を慈愛するには、道芸を教へて子の才徳を成就するを本とす、当座の苦労をいたわりて、子の願ひの儘に育てぬるを姑息の愛と云、姑息の愛は舐犢の愛とて、牛の子を育つるに仮令たり、姑息の愛はさし当りては、慈愛に似たれ共、其子気随になりて、才も無く徳も無く、禽獣に近くなりぬれば、畢竟は子を悪みて悪しき道へ引入るゝに同しき故、我身は親の身を受けて分けたれば、則親の身なり、親に受たる我身を分けと、子の身となしたる者なれば、子の身も根本は親の身なり、子をむざと育てゝ悪き道へ引入るゝは、親の身を悪道へ落すに異ならざる故に、子に能く教へざるは大不孝の第一なり

書き下し

親の子を慈愛するには、道芸を教へて子の才徳を成就するを本とす、当座の苦労をいたわりて、子の願ひの儘に育てぬるを姑息の愛と云、姑息の愛は舐犢の愛とて、牛の子を育つるに仮令たり、姑息の愛はさし当りては、慈愛に似たれ共、其子気随になりて、才も無く徳も無く、禽獣に近くなりぬれば、畢竟は子を悪みて悪しき道へ引入るゝに同しき故、我身は親の身を受けて分けたれば、則親の身なり、親に受たる我身を分けと、子の身となしたる者なれば、子の身も根本は親の身なり、子をむざと育てゝ悪き道へ引入るゝは、親の身を悪道へ落すに異ならざる故に、子に能く教へざるは大不孝の第一なり

現代語訳

親が子を慈愛するには、道と芸を教えて子の才徳を成就させることを本とする。目先の苦労をいたわって、子の願うままに育てるのを姑息の愛という。姑息の愛は舐犢の愛といって、牛が子をなめて育てることにたとえる。姑息の愛は、さしあたりは慈愛に似ているけれども、その子は気ままになって、才もなく徳もなく、禽獣に近くなってしまうので、結局は子を憎んで悪い道へ引き入れるのと同じである。我が身は親の身を受けて分けたものであるから、すなわち親の身である。親から受けた我が身を分けて子の身としたのであるから、子の身も根本は親の身である。子をむやみに育てて悪い道に引き入れるのは、親の身を悪道に落とすのと変わらないので、子によく教えないのは大不孝の第一である。

解説

ここから親の側の道、慈が説かれる。藤樹は、子の願いのままに育てる「姑息の愛」を厳しく戒める。舐犢の愛は、母牛が子牛をなめてかわいがるだけの盲目的な愛を指す。甘やかしは一見慈愛に見えるが、結果として子を才徳のない者にしてしまう。さらに、子の身は親の身、親の身は祖先の身という連なりから、子を教えないことは祖先への大不孝になるという論理が導かれる。部下や後輩を育てる場面でも、目先の楽をさせることが本当の思いやりとは限らない。成長に必要な厳しさを伴ってこそ、育てる側の愛情は本物になる。

この章句が説くこと

慈愛教育孝姑息育成才徳

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る