日本国風抄録 / 武士・武士をものゝふと呼ぶ語源の考察
職原鈔曰、神武東征之日、物部氏祖道臣命爲軍師(古稱武士云、物部起於此)と云、失考也、(道臣命は大伴氏の祖にて物部氏の祖にあらず、)河海に物部氏遠祖天津麻呂神代に兵を取て天孫天降給ひし時、御前を奉る、仍其子孫諸の物部を領して武勇の道を掌る、其後勇者を物部といひ習せるなり、按ずるに舊事紀を見るに、此時に天物部廿五部、同帶兵仗天降供奉と云、此廿五部皆武神也、依之武士をものゝふと云來るなるべし、ものゝふはもののへの轉語也、又古今集抄に武士とは干戈を帶する者に限らず、心强情なるをいへり、色葉集にたゞおとこをなべていふなるべしとも云り、
新字:職原鈔曰、神武東征之日、物部氏祖道臣命為軍師(古称武士云、物部起於此)と云、失考也、(道臣命は大伴氏の祖にて物部氏の祖にあらず、)河海に物部氏遠祖天津麻呂神代に兵を取て天孫天降給ひし時、御前を奉る、仍其子孫諸の物部を領して武勇の道を掌る、其後勇者を物部といひ習せるなり、按ずるに旧事紀を見るに、此時に天物部廿五部、同帯兵仗天降供奉と云、此廿五部皆武神也、依之武士をものゝふと云来るなるべし、ものゝふはもののへの転語也、又古今集抄に武士とは干戈を帯する者に限らず、心強情なるをいへり、色葉集にたゞおとこをなべていふなるべしとも云り、
書き下し
職原鈔曰、神武東征之日、物部氏祖道臣命爲軍師(古稱武士云、物部起於此)と云、失考也、(道臣命は大伴氏の祖にて物部氏の祖にあらず、)河海に物部氏遠祖天津麻呂神代に兵を取て天孫天降給ひし時、御前を奉る、仍其子孫諸の物部を領して武勇の道を掌る、其後勇者を物部といひ習せるなり、按ずるに舊事紀を見るに、此時に天物部廿五部、同帶兵仗天降供奉と云、此廿五部皆武神也、依之武士をものゝふと云來るなるべし、ものゝふはもののへの轉語也、又古今集抄に武士とは干戈を帶する者に限らず、心强情なるをいへり、色葉集にたゞおとこをなべていふなるべしとも云り、
現代語訳
『職原鈔』には「神武天皇東征の日、物部氏の祖である道臣命が軍師となった(古くは武士というのは、物部がここから起こった)」とありますが、これは考証の誤りです。(道臣命は大伴氏の祖で、物部氏の祖ではありません。)『河海抄』には、物部氏の遠祖である天津麻呂が神代に兵を取って、天孫が天降られた時に御前をお仕えし、その子孫が多くの物部を領して武勇の道をつかさどったとあり、その後、勇者を物部と呼びならわしたのだとあります。考えてみるに、『旧事紀』を見ると、この時に天物部二十五部が、同じく兵仗を帯びて天降りお供したとあり、この二十五部はみな武神です。そのため武士をものゝふと呼んできたのでしょう。ものゝふは「もののへ」の転語です。また『古今集抄』には、武士とは干戈を帯びる者に限らず、心が強く情が厚い者をいうとあり、『色葉集』には、ただ男をひろくいうのであろうとも言っています。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武訓』下・第23段武士を、物の部といふこと、神武天皇の御時、宇麻志麻治命と、道臣命と、軍兵を具して、內裏を守る。道臣命の司れる軍兵をば、兵といふ。宇麻志麻治命の司れるを、物部といひし故なり。
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『士道要論』・原士・物部と周の軍役にみる武士の源流世々物部の職を繼しめ給ひしこと、舊事記日本紀などにみえたり、さて物部はものゝべとよみ、又萬葉集にはものゝふとよめり、物とは兵をいへり、むかしの書に兵卒を物共といひ、武具を物の具といひ、後の世にも、兵士のつかさを物主物頭などいふをもて知るべし、されば物部は卽武士なり、(後の世の歌物語などに武士とかきて卽ものゝふとよめり)もろこしの士を事とよめるに略相似たり、武士の名、源平氏にはじまれるにあらざることあきらけし、さてまたもろこしも、周のころまでは、天子諸侯大夫も武をもてむねとするゆへ、其富をいふに、專軍役をもて、萬乘千乘百乘とゝなへて、一國の內、上下貴賤軍役の內にあらざるものなし、さればその一乘には、甲士三人步卒七十二人と定て、步卒は農民にて、その將は即士なり、又公卿大夫その將となれば、公卿大夫も士と功をともにせり、ゆへに公卿の子もいまだ官につかざる內はその士なり、禮に士冠禮のみありて、公卿大夫の冠禮なきをもてしるべし、されば大御國のいにしへも、西土のいにしへも、公卿大夫に武家の名なけれども、みな武家といふべし、士の皆武士なることは、もとよりなり、詩の國風周南に、赳々武夫。公侯干城。
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『武士訓』卷一・第2段內に私欲奸佞の心敵を滅し。外に邪惡暴逆の賊徒を誅し。身心政事にいたるまで。なべてたゞちにいさぎよく。おのづから威ありて。天が下を畏服せしめ給ふべしとのこゝろなり(もろこしにて智仁勇の三德といへるは其義一なり。仁智勇は五倫をおこなふ心の德なり。)和なければ人したしまず。この故によく柔なり。威なければ下あなどる。この故によく剛なり。まがればをしへおこなはれず。この故によく正直なり。かくのごとくならずしては。身をおさめ。家を齊え。國をおさめ。天下を平にすることあたはざるなり。上古は。書もなく。字もなければ。此三種をつくりて敎とし。皇孫にしめし。神器のたとえの三德をまもり給はゞ。寶祚の隆こと。まさに天壤ときはまりなかるべしとの御敎なり。(是神道皇道にして文武の兩道なり。)かくてのち皇孫天降らせ給ふに。天物部等二十五人兵仗を帶して供奉す。神武天皇東征のゝち。饒速日尊の子宇摩志麻治命武功すぐれたるによつて。軍士をぐして。內裏を守護せしむることを命ぜらる。其司るところを物部といふ。是等の事よりして。武士を。ものゝふと訓ずることはじまれり。
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『文武訓』武訓下一武士を物の部といふこと、神武天皇の御時、宇麻志麻治命と、道臣命と、軍兵を具して内裏を守る。道臣命の司れる軍兵をば兵といふ。宇麻志麻治命の司れるを、物部といひし故なり。一戦陣に川を渡すに、河辺にのぞんで乗り入る所と、向ひのあがり所をよく見定むべし。むかひあがり場悪しければ、あがりにくく、敵にうたれ身方に越さる。川ほりなどありて、馬にて飛びこすべきとおもふ所は、かねて馬を乗るに、馬の足をはやめ、其勢を以て飛び越さすべし。かち立にて走り越ゆるも同意なり。敵川を越来るを待ちて戦ふに、古法に、半渡るをうつといふ。半渡とは、敵川半まで渡り来るといふ事には非ず。身方は、川ばたより二三町ほど引退きて陣をなし、敵の川をこし来るをうつ。敵兵半ば岸よりあがりて、備いまだ定まらず、半ば未だ川中にありて渡る時、此方よりきそひかかりて、敵の備なきを急にうつて、敵を川に追ひはめ打つをいふ。是必ず利ある謀なり。
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『士道要論』・原士・士の字は戦事を意味するという考察遂に大臣たらん人の物具したるためし、古よりなきよし、物にも書けるにいたれり、いかに思ひあやまてるにや、さて文武を分てること、西土隋唐の世にも見えず、まして西土のいにしへは、左氏傳にも、國之大事は在祀與戎とさへいひて、天子諸侯も士卒の將となりて征伐すること、こゝの古のおもむきによく似たり、かく天子諸侯も、士卒の將となり、武をもて職としたれば士の武をもて名とすることもことわりならずや、且士といふ文字を考ふるに、古訓に事とよめり、事は戎事より大きなることなければ、事とのみいへば、戎事をむねとすべし、論語に、將有事於顓臾とあり、事の戎事たる證なり、(祀も大事なれば、たゞ事とのみいへり、春秋に有事於大廟とは祀をいへり、餘事にたゞ事といふとはなし、)故に諸士の職多きなかに、兵刑をつかさどれる官のみを、ことに士とは云り、尙書に皐陶士の官をもて、蠻夷の夏を猾れるを平らげ、寇賊の姦宄なるをせめ詰れるをみてしるべし、周の世にいたりても、獄のつかさを士師といひ、其屬官に鄕士遂士などありて、いづれも暴をいましむるをもて職とするも、周官にみえたり、これも士の武をむねとする證とすべし、大御國のいにしへは、美眞手の命、神武帝の御時、天の物部をひきゐて、あだを平らげ給ひ、又內の物部をもひきゐたまひしかば、天皇詔して、
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『士道要論』・原士・士はもともと武に備える者の総称士の職くさ〳〵にわかれ、民を治る任あり、財を掌どる官あり、文學顧問に備はるものあり、侍御扈從をつとむるものあり、下は廚庖倉庫などの雜司にいたるまで、みな士と名付て兩刀を佩しめ、もぱら不虞に備へしめ、亂のおこり寇の出來ることあらんには、みな戈を提て事に從ふべき定なれば、なべてこれを武士といふなり、或人難じていへらく、いにしへ文武官をことにせり、武士といへるもの、源平の頃より始り、古制にあらずといへり、是よく古をしらざる人の言なり、官に文武をわかちそめしは、中昔このかたのことなり、あがれる御代の定にはあらざりき、さればいにしへ事あれば、公卿大臣はものかは、天子皇后もみづから軍をひきゐて、亂賊をうちほろぼし玉ひ、あるひは外國までも事むけ玉へることもありき、かく天子皇后も、士卒の將となり玉ひぬれば、公卿より下つかた、文武のけじめなきとしるべし、中昔よりこのかた、天子九重の內に人となりたまひ、公卿大臣以下も、大むね膏粱の子弟にて、金鼓の聲をきけば、頭をちぢめ、耳をふさぎて、おぢわなゝき、ものゝ用にたつべきものなかりしかば、源平などの家出來て、もぱら兵革のことをつかさどれることゝはなりぬ、夫より縉紳の人々思ひあがり、武事をおとしめて、卒徒の任とのみ思ひ玉ひ、

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