日本国風抄録 / 義戦・辺境の守りと、国を乱す者への征討
異國より吾國を先だつて侵す、それより文永弘安まで此國を襲ふと十三度に及べりと云、諸神豫此隣敵の畏れを鑑みまし〱、神功皇后に誨て新羅を征し神策武威を示し、新羅のみならず、外國悉怖畏して永世此國を侵さゞらんことを思ひ給ふの神意なるも知るべからず、朝野群載筥崎記曰、筥崎宮在西海道筑前國那珂郡、盖八幡大菩薩之別宮也云々、北臨巨海、西向絶域、爲防異國之來寇垂跡此地、これ又神意の隣敵守禦に在ことを觀つべし、况又日本武尊東西の夷を討給ひ、崇神天皇の時武埴安彦謀反に依て大彦と彦國營とを遣してこれを征、聖武天皇の御宇太宰少貳藤原廣嗣肥前國遠珂郡に城を建て王命不從反逆を企つ、依て大將軍大野東人、副將軍紀飯麻呂、佐伯常久、阿陪中麻呂を添て征伐せしむ、又朱雀院の御宇に平將門東に叛し藤原純友西に叛きて天位を侵さんとす、軍將を遣して速に征す、(此後貞任宗任武衡家衡反逆の征伐有、)夫此國は皇孫の國也、然るに天位を奪はんとす、速に軍將を遺し其罪を聲して征伐す、豈義戰に非や、
新字:異国より吾国を先だつて侵す、それより文永弘安まで此国を襲ふと十三度に及べりと云、諸神予此隣敵の畏れを鑑みまし〱、神功皇后に誨て新羅を征し神策武威を示し、新羅のみならず、外国悉怖畏して永世此国を侵さゞらんことを思ひ給ふの神意なるも知るべからず、朝野群載筥崎記曰、筥崎宮在西海道筑前国那珂郡、盖八幡大菩薩之別宮也云々、北臨巨海、西向絶域、為防異国之来寇垂跡此地、これ又神意の隣敵守禦に在ことを観つべし、況又日本武尊東西の夷を討給ひ、崇神天皇の時武埴安彦謀反に依て大彦と彦国営とを遣してこれを征、聖武天皇の御宇太宰少貳藤原広嗣肥前国遠珂郡に城を建て王命不従反逆を企つ、依て大将軍大野東人、副将軍紀飯麻呂、佐伯常久、阿陪中麻呂を添て征伐せしむ、又朱雀院の御宇に平将門東に叛し藤原純友西に叛きて天位を侵さんとす、軍将を遣して速に征す、(此後貞任宗任武衡家衡反逆の征伐有、)夫此国は皇孫の国也、然るに天位を奪はんとす、速に軍将を遺し其罪を声して征伐す、豈義戦に非や、
書き下し
異國より吾國を先だつて侵す、それより文永弘安まで此國を襲ふと十三度に及べりと云、諸神豫此隣敵の畏れを鑑みまし〱、神功皇后に誨て新羅を征し神策武威を示し、新羅のみならず、外國悉怖畏して永世此國を侵さゞらんことを思ひ給ふの神意なるも知るべからず、朝野群載筥崎記曰、筥崎宮在西海道筑前國那珂郡、盖八幡大菩薩之別宮也云々、北臨巨海、西向絶域、爲防異國之來寇垂跡此地、これ又神意の隣敵守禦に在ことを觀つべし、况又日本武尊東西の夷を討給ひ、崇神天皇の時武埴安彦謀反に依て大彦と彦國營とを遣してこれを征、聖武天皇の御宇太宰少貳藤原廣嗣肥前國遠珂郡に城を建て王命不從反逆を企つ、依て大將軍大野東人、副將軍紀飯麻呂、佐伯常久、阿陪中麻呂を添て征伐せしむ、又朱雀院の御宇に平將門東に叛し藤原純友西に叛きて天位を侵さんとす、軍將を遣して速に征す、(此後貞任宗任武衡家衡反逆の征伐有、)夫此國は皇孫の國也、然るに天位を奪はんとす、速に軍將を遺し其罪を聲して征伐す、豈義戰に非や、
現代語訳
異国がわが国を先に侵し、それから文永・弘安の役まで、この国を襲うことは十三度に及んだといいます。諸神があらかじめこの隣敵の脅威をお見通しになり、神功皇后に教えて新羅を征し、神の策と武の威を示して、新羅だけでなく外国がみな畏れ、永く世にこの国を侵さないようにとお思いになった神意かもしれません。『朝野群載』の筥崎記には「筥崎宮は西海道筑前国那珂郡にあり、八幡大菩薩の別宮である。北は大海に臨み、西は遠い異域に向かい、異国の来寇を防ぐためにこの地に垂迹された」とあります。これも神意が隣敵の守りにあることを見てとれる例です。まして日本武尊が東西の蝦夷を討たれ、崇神天皇の時に武埴安彦が謀反したので大彦と彦国葺を遣わして征し、聖武天皇の御代に太宰少弐藤原広嗣が肥前国遠珂郡に城を建てて王命に従わず反逆を企てたので、大将軍大野東人、副将軍紀飯麻呂、佐伯常久、阿倍中麻呂を添えて征伐させ、また朱雀院の御代に平将門が東に叛き藤原純友が西に叛いて天位を侵そうとしたので、軍将を遣わして速やかに征しました。(この後、貞任・宗任・武衡・家衡の反逆の征伐もあります。)そもそもこの国は皇孫の国です。それなのに天位を奪おうとするので、速やかに軍将を遣わしてその罪を告げて征伐する、これがどうして義戦でないことがありましょうか。
解説
この章句が説くこと
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