直毘霊 / 老荘が意にひとしきか
ほどほどにあるべきかぎりのわざをして、穩しく樂く世をわたらふほかなかりしかば。かくあるほかに、何の敎ごとをかもまたむ、抑みどり兒に物敎へ、又諸匠の物造るすべ、其外よろづの伎藝などを敎ふることは、上代にも有けむを、かの儒佛などの敎事も、いひもてゆけば、これらと異なることなきに似たれども、辨ふれば同じからざることぞかし。今はた其道といひて、別に敎を受て、おこなふべきわざはありなむや。然らば神の道は、からくにの老莊が意にひとしきかと、或人の疑ひ問へるに、答けらく、かの莊老がともは儒者のさかしらをうるさみて、自然なるをたふとめば、おのづから似たることあり、されどかれらも、大御神の御國ならぬ惡國に生れて、たゞ代々の聖人の說をのみ聞なれたるものなれば、自然なりと思ふも、なほ聖人の意のおのづからなるにこそあれ、よろづの事は神の御心より出て、その御所爲なることをしも、えしらねば、大旨の甚くたがへる物をや。
新字:ほどほどにあるべきかぎりのわざをして、穏しく楽く世をわたらふほかなかりしかば。かくあるほかに、何の教ごとをかもまたむ、抑みどり児に物教へ、又諸匠の物造るすべ、其外よろづの伎芸などを教ふることは、上代にも有けむを、かの儒仏などの教事も、いひもてゆけば、これらと異なることなきに似たれども、弁ふれば同じからざることぞかし。今はた其道といひて、別に教を受て、おこなふべきわざはありなむや。然らば神の道は、からくにの老荘が意にひとしきかと、或人の疑ひ問へるに、答けらく、かの荘老がともは儒者のさかしらをうるさみて、自然なるをたふとめば、おのづから似たることあり、されどかれらも、大御神の御国ならぬ悪国に生れて、たゞ代々の聖人の説をのみ聞なれたるものなれば、自然なりと思ふも、なほ聖人の意のおのづからなるにこそあれ、よろづの事は神の御心より出て、その御所為なることをしも、えしらねば、大旨の甚くたがへる物をや。
書き下し
程々にあるべき限りのわざをして、穏しく楽しく世を渡らうほか無かりしかば。かくあるほかに、何の教え言をか待たん、抑緑子に物教え、又諸々の匠の物造る術、其の外万の伎芸などを教うることは、上代にも有りけんを、彼の儒仏などの教え事も、言いもてゆけば、これらと異なることなきに似たれども、弁うれば同じからざることぞかし。今はた其の道と言いて、別に教えを受けて、行うべきわざは有りなんや。然らば神の道は、唐国の老荘が意に等しきかと、或る人の疑い問えるに、答えけらく、彼の荘老が伴は儒者のさかしらを煩さみて、自然なるを尊めば、自ずから似たることあり、されど彼らも、大御神の御国ならぬ悪しき国に生まれて、唯代々の聖人の説をのみ聞き慣れたるものなれば、自然なりと思うも、猶聖人の意の自ずからなるにこそあれ、万の事は神の御心より出でて、その御所為なることをしも、え知らねば、大旨の甚く違える物をや。
現代語訳
(人々は)それぞれの身の程にあるべきかぎりの業をして、穏やかに楽しく世を渡るほかなかったのであるから、このようにあるほかに、何の教えを待つことがあろうか。そもそも幼子に物を教え、また諸々の職人の物を造る技、そのほかさまざまな技芸などを教えることは上代にもあったであろうが、あの儒教や仏教などの教えも、突きつめればこれらと異なるところがないように見えるけれども、よく考えれば同じではないのである。今もまた、その(神の)道と言って、別に教えを受けて行うべき業などがあるだろうか。それならば神の道は、唐国の老荘の考えと同じなのかと、ある人が疑って問うたのに答えたことには、あの荘子・老子の仲間は、儒者の小賢しさを煩わしく思って自然を尊ぶので、おのずから似たところがある。しかし彼らも大御神の御国ではない悪い国に生まれて、ただ代々の聖人の説ばかりを聞き慣れた者であるから、自然だと思うものも、やはり聖人の考えにとっての自然にすぎない。万事は神の御心から出て、神の御所為であるということを知らないのだから、大筋でひどく異なっているのである。
解説
関連する章句
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『直毘霊』此の道はいかなる道ぞそも此の道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのずからなる道にもあらず。是をよく弁え別けて、かの漢国の老荘などが見と、ひとつにな思いまがえそ。人の作れる道にもあらず。此の道はしも、可畏きや高御産巣日神の御霊によりて、世の中にあらゆる事も物も、皆悉に、此の大神のみたまより成れり。神祖伊邪那岐大神・伊邪那美大神の始めたまいて、よのなかにあらゆる事も物も、此の二柱の大神よりはじまれり。天照大御神の受けたまい、たもちたまい、伝え賜う道なり。故に是を以て神の道とは申すぞかし。
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『直毘霊』人は鳥虫に劣れりとや世の中に生きとし生ける物、鳥虫に至るまでも、己が身のほどほどに必ずあるべき限りのわざは、産巣日神の御霊に頼りて、自ずからよく知りて為すものなる中にも、人は殊に優れたる物と生まれつれば、又しか優れたるほどに適いて、知るべき限りは知り、すべき限りはする物なるに、いかでか其の上を猶強いることのあらん、教えによらずては、え知らずえせぬものと言わば、人は鳥虫に劣れりとやせん、いわゆる仁義礼譲孝悌忠信の類、皆人の必ずあるべきわざなれば、あるべき限りは、教えを借らざれども、自ずからよく知りて為すことなるに、彼の聖人の道は、もと治まり難き国を、強いて治めんとして作れる物にて、人の必ず有るべき限りを過ぎて、猶厳しく教え立てんとせる強い事なれば、まことの道に適わず、故口には人皆事々しく言いながら、まことに然行う人は、世々にいと有り難きを、天理のままなる道と思うはいたく違えり、又其の道に背ける心を、人欲と言いて憎むも、心得ず、そもそも其の人欲という物は、
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『直毘霊』吉凶き万事は神の御所為古の大御代に、その道を借らずて、いとよく治まりしを思え。そもそもこの天地の間に、有りとある事は、悉皆に神の御心なる中に。およそこの世の中の事は、春秋の行き変わり、雨降り風吹くたぐい、また国の上人の上の、吉凶き万事、みなことごとに神の御所為なり。さて神には、善きもあり悪しきもありて、所行もそれに従うなれば、大方尋常の理をもては、測りがたきわざなりかし。然るを世人、賢きも愚かなるもおしなべて、外国の道々の説にのみ惑い果てて、この意をえ知らず。皇国の学問する人などは、古書を見て、必ず知るべきわざなるを、さる人どもだに、え弁え知らざるは、いかにぞや。抑吉凶き万の事を、あだし国にて、仏の道には因果とし、漢の道々には天命と言いて、天のなすわざと思えり。これらみな僻事なり。そが中に仏道の説は、多く世の学者の、よく弁えつることなれば、今言わず。漢国の天命の説は、賢き人もみな惑いて、いまだ僻事なることを悟れる人なければ、今これを論い悟さむ。
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『直毘霊』垣内を離れて見れば古えは道という言挙げなかりし故に、古書どもに露ばかりも道々しき意も語も見えず、故舎人親王を始め奉りて、世々の識者ども、道の意をえ捉えず、唯彼の道々しきことこちたく言える、唐書の説のみ、心の底に染み着きて、其を天地の自ずからなる理と思い居る故に、すがるとは思わねども、自ずからそれにまつわれて、彼方へのみ流れゆくめり、されば異国の道を道の羽翼となるべき物と思うも、即ち其の心の彼処へ奪われつるなりけり、大方漢国の説は、彼の陰陽乾坤などをはじめ、諸皆、もと聖人どもの己が智をもて、推し量りに作り構えたる物なれば、うち聞きには、理深げに聞こゆめれども、彼が垣内を離れて外よりよく見れば、何ばかりのこともなく、中々に浅はかなることどもなりかし、されど昔も今も世人の此の垣内に迷い入りて、え出で離れぬこそ口惜しけれ、大御国の説は、神代より伝え来しままにして、いささかも人のさかしらを加えざる故に、上辺は唯浅々と聞こゆれども、実には底ひもなく、人の智のえ測らぬ、
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『直毘霊』漢籍の神道と皇国の神道されば彼の漢籍なる神道は、測り難くあやしき道という心、皇国の神道は、皇祖神の、始め賜い保ち賜う道ということにて、其の意いたく異なるをや。さて其の道の意は、此の記をはじめ、諸々の古書どもをよく味わい見れば、今もいとよく知らるるを、世々の物知り人どもの心も、皆禍津日神にまじこりて、唯唐書にのみ惑いて、思いと思い、言いと言うことは、皆仏と漢との意にして、まことの道の心をば、え悟らずなもある。
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『直毘霊』言痛き教えも何もなかりしかど故、皇国の古は、さる言痛き教えも何もなかりしかど、
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