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直毘霊 / 直毘神の御霊たばりて

もししひて求むとならば、きたなきからぶみごゝろを祓ひきよめて淸々しき御國ごゝろもて、古典どもをよく學びてよ、然せば、受行べき道なきことは、おのづから知てむ、其をしるぞ、すなはち神の道をうけおこなふにはありける、かゝれば如此まで論ふも、道の意にはあらねども、禍津日神のみしわざ、見つゝ默止えあらず、神直毘神大直毘神の御靈たばりて、このまがをもて直さむとぞよ。上の件、すべて己が私のこゝろもていふにあらず、ことごとに古典に、よるところあることにしあれば、よく見む人は疑はじ。かくいふは、明和の八年といふとしの、かみな月の九日の日、伊勢國飯高郡の御民、平阿曾美宣長、かしこみかしこみもしるす。

新字:もししひて求むとならば、きたなきからぶみごゝろを祓ひきよめて清々しき御国ごゝろもて、古典どもをよく学びてよ、然せば、受行べき道なきことは、おのづから知てむ、其をしるぞ、すなはち神の道をうけおこなふにはありける、かゝれば如此まで論ふも、道の意にはあらねども、禍津日神のみしわざ、見つゝ黙止えあらず、神直毘神大直毘神の御霊たばりて、このまがをもて直さむとぞよ。上の件、すべて己が私のこゝろもていふにあらず、ことごとに古典に、よるところあることにしあれば、よく見む人は疑はじ。かくいふは、明和の八年といふとしの、かみな月の九日の日、伊勢国飯高郡の御民、平阿曽美宣長、かしこみかしこみもしるす。

書き下し

もし強いて求むとならば、汚き唐書心を祓い清めて清々しき御国心もて、古典どもをよく学びてよ、然せば、受け行うべき道無きことは、自ずから知りてん、其を知るぞ、即ち神の道を受け行うにはありける、かかれば如此まで論うも、道の意にはあらねども、禍津日神の御しわざ、見つつ黙止えあらず、神直毘神大直毘神の御霊たばりて、この禍をもて直さんとぞよ。上の件、すべて己が私の心もて言うにあらず、事ごとに古典に、拠るところあることにしあれば、よく見ん人は疑わじ。かく言うは、明和の八年という年の、神無月の九日の日、伊勢国飯高郡の御民、平阿曽美宣長、畏み畏みも記す。

現代語訳

もし強いて(道を)求めようというのならば、汚い漢籍かぶれの心を祓い清めて、清々しい御国の心をもって、古典をよく学ぶがよい。そうすれば、(特別に)受けて行うべき道がないことはおのずから分かるであろう。それを知ることこそが、すなわち神の道を受けて行うことなのである。そうであるから、このように論じることも道の本意ではないが、禍津日神のしわざを見ながら黙ってはいられず、神直毘神・大直毘神(かむなおびのかみ・おおなおびのかみ)の御霊をいただいて、この禍を直そうとするのである。以上のことは、すべて自分の私心で言うのではなく、一つ一つ古典に拠りどころのあることであるから、よく読む人は疑わないであろう。こう述べるのは、明和八年という年の十月九日、伊勢国飯高郡の御民、平阿曽美(たいらのあそみ)宣長が、畏み畏みも記すものである。

解説

直毘霊の結びである。道を求めるなら、漢籍に染まった心を祓い清め、清々しい御国心で古典を学べ。そうすれば、特別に修めるべき道などないと分かり、それを知ることがそのまま神の道を行うことだという。言挙げしないのが道なら、この論自体が矛盾ではないか。宣長はそれを認めたうえで、禍津日神のしわざを見過ごせず、禍を直す神直毘神・大直毘神の御霊を借りて書いたと言う。これが書名「直毘霊」の由来である。明和八年(1771年)の署名があり、のちに『古事記伝』一之巻に収められた。本来は語らずに済ませたいことを、それでも言葉にせねばならないのはどんなときだろうか。

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