玉勝間 / 十四の巻 世の人まことの道に心つかざる事
もろこしの國には、道〓と云ふもの、世世に盛に行はれて、大かた佛道とひとしきばかりなり。此道、老子を祖とはたつれども、老子が意とはいたく異にして、唯だあやしき戯れわざのやうなる事にて、そのむねを極むれば、やうなきいたづら事なり。皇國に、此道のわたりまうでこざるは幸ひなり。然は有れども、天ノ下の人の心、佛道と儒道とに、ことごとく奪はれ果てたるは、又なげかしき事なり。大かた天下の人、上中下、さかしき愚なる、おしなへて、奧山の山賤までも、佛を信ぜざるは一人も無く、その中に、角なる字をもいささか讀む程の者は、又なかば儒意をまじへて、萬づの事を思ひ定むめり。されば、神のまことの道を思ふ人は、千萬人の中に、唯だ一人二人にて、その餘は神社につかふる人の中に、稀れ稀れさすがに己が家の業と思ひ得て、神の道を尊ふもあれど、さる人も、多くは佛意儒意なり。又神の道と云ふも、皆儒佛によりて說キまげたる物なれば、まことの道は、大かた絕はてたるも同し事なり。
新字:もろこしの国には、道〓と云ふもの、世世に盛に行はれて、大かた仏道とひとしきばかりなり。此道、老子を祖とはたつれども、老子が意とはいたく異にして、唯だあやしき戯れわざのやうなる事にて、そのむねを極むれば、やうなきいたづら事なり。皇国に、此道のわたりまうでこざるは幸ひなり。然は有れども、天ノ下の人の心、仏道と儒道とに、ことごとく奪はれ果てたるは、又なげかしき事なり。大かた天下の人、上中下、さかしき愚なる、おしなへて、奥山の山賤までも、仏を信ぜざるは一人も無く、その中に、角なる字をもいささか読む程の者は、又なかば儒意をまじへて、万づの事を思ひ定むめり。されば、神のまことの道を思ふ人は、千万人の中に、唯だ一人二人にて、その余は神社につかふる人の中に、稀れ稀れさすがに己が家の業と思ひ得て、神の道を尊ふもあれど、さる人も、多くは仏意儒意なり。又神の道と云ふも、皆儒仏によりて説キまげたる物なれば、まことの道は、大かた絶はてたるも同し事なり。
書き下し
もろこしの国には、道教と云うもの、世々に盛んに行われて、大かた仏道とひとしきばかりなり。この道、老子を祖とはたつれども、老子が意とはいたく異にして、ただあやしき戯れわざのようなる事にて、そのむねを極むれば、ようなきいたずら事なり。皇国に、この道のわたりもうでこざるは幸いなり。然は有れども、天の下の人の心、仏道と儒道とに、ことごとく奪われ果てたるは、又なげかしき事なり。大かた天下の人、上中下、さかしき愚かなる、おしなべて、奥山の山賤までも、仏を信ぜざるは一人も無く、その中に、角なる字をもいささか読むほどの者は、又なかば儒意をまじえて、万ずの事を思い定むめり。されば、神のまことの道を思う人は、千万人の中に、ただ一人二人にて、その余は神社につかうる人の中に、稀れ稀れさすがに己が家の業と思い得て、神の道を尊ぶもあれど、さる人も、多くは仏意儒意なり。又神の道と云うも、皆儒仏によりて説きまげたる物なれば、まことの道は、大かた絶えはてたるも同じ事なり。
現代語訳
中国の国には、道教というものが代々盛んに行われて、おおよそ仏道と同じくらいである。この道は老子を祖と立ててはいるが、老子の考えとはひどく異なっていて、ただ怪しい戯れのようなことで、その趣旨を突き詰めれば、役に立たない無駄事である。我が国にこの道が渡って来なかったのは幸いである。そうではあるが、天下の人の心が、仏道と儒道とにすっかり奪われてしまったのは、また嘆かわしいことである。おおよそ天下の人は、上中下の身分も、賢い者も愚かな者も、おしなべて奥山の木こりまでも、仏を信じない者は一人もなく、その中で漢字を少しでも読むほどの者は、またなかば儒の考えを交えて、あらゆることを考え決めているようである。だから神の真の道を思う人は、千万人の中にただ一人二人で、そのほかは神社に仕える人の中に、まれにさすがに自分の家業と思って神の道を尊ぶ者もいるが、そういう人も多くは仏の考え、儒の考えである。また神の道といっても、みな儒仏によって説き曲げたものなので、真の道は、おおよそ絶え果てたのも同じことである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 世の人まことの道に心つかざる事天の下大かた、件の如くなれば、ただいずこもいずこも、仏寺のみ栄えて、神社はいたく衰えまして、その衰えを憂うる人も無く、神はただ、病その外の祈り事にのみ用いられて、この道もただ、世の中の外の無用の物の如く、ただ古えより有り来たれる事として、ひたぶるに廃られぬと云うのみなり。この道は、これ天下を治め、国を治むる、先務要道なることを知れる人は、われいまだ、夢にも見きかず。いともいとも悲しき事ならずや。
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『玉勝間』十四の巻 道神の道は、世にすぐれたるまことの道なり、みな人知らではかなわぬ皇国の道なるに、わずかに糸筋ばかり世にのこりて、ただまことならぬ、他の国の道々のみはびこりにはびこれるは、いかなる事にか。まがつひの神の御心は、すべ無き物なりけり。
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『玉勝間』七の巻 道を説く事はあだし道道の意にも世の人のとりとらざるにもかかはるまじき事道を説かむに儒にまれ、老にまれ、仏にまれ、稀れ稀れに心ばえの通える所の有るを捉えて、おのが心のひくかたにまかせて、通わぬ所をも、すべてその筋に引きよせて説きなし、或いはまた他道と同じからん事を、いといさけて、殊更にけじめを見せ、さまを変えて説かむとする、これら皆いとあじきなくしいたるわざなり似ざらむも似たらむも、異ならむも同じからむも、とにかくに異道の意には、いささかもかかわるべきわざにあらず。またかく説きたらむには、世にうけひかじ、かく云いてこそ、人は信ぜめなど、世の人の心をとりて、いささかも説き曲げむ事は、またいと有るまじく、心ぎたなきわざなり。すべて世の人の褒め謗りをも、思うべきにはあらず。たとい、あだし道々とは、うらうえのたがいあり、世にも絶えて信ずる人無からむにても、ただ神の御ふみの趣のままにこそは、説くべきわざなりけれ。
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『玉勝間』四の巻 両部神道ただおのがわたくしの新ばり道なるを、神道としも名づけたるは、いかなる故ぞと云うに、儒の道仏の道は、あだし国よりわたりもうで来つる道にして、神の道ぞ、皇国の本よりの道なれば、後の世と云えども、世の人なお、他国の道によらんよりは、同じくは吾が国の道をこそは尊むべけれ、と思う心も、さすがに多く有る物なれば、さる世の人をおもむけむ為に、わが国の道と云う名をかりたる物にして、このともがらの祖とする、昔の法師なども、然かにぞ有りける。そのかみなお国々の民どもは、もはら神を尊みあおげる故に、まづその神を引きこめて、おのが道の中の物にしなして、かしこくも仏の奴の如く説きなして、人の心をうつさせたる物ぞかし。ちかき世の両部神道の、神道と云う名も、この心ばえを以てなり。
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『玉勝間』七の巻 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事世のこちたくさかしだちたる事は上べこそよろしきに似たれ、まことには、いとよろしからず、なかなかの物害いとなる事をさとりて、まことの道はかくこそ有るべきものなれと、はしばしみずから考え出でたる事の中に、考えあてて、たまたまこのまことの道に似たるふし、合える事も有るなりけり。さるは、まことの道は、もとより人のさかしらを加えたる事無く、皇神の定めおき給えるままなる道にし有れば、その趣を説かむには、彼れが、さかしらをにくめる説は、おのずから似たるところ、合えるところ有るべきことわりなり。然かは有れども、彼れが云えるは、ただおのが智慮もて、考え出でたるかぎりにこそ有れ、皇国に生まれて、正しくこの道を聞けるにあらざれば、その主と有る本の心は、知ることあたわず、いたくたがいて、さらに似もつかぬ事なるを、彼の漢学のともがら、然かたがえるところをば知らで、たまたまかたはし似たる事の有るを捉えて、それによれりとしも云いなすは、いとおこなりかし。
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『玉勝間』七の巻 もろこしの老子の説まことの道に似たる所ある事おのれ今まことの道の趣を見明らめて、解きあらわせるを、漢学のともがら、かの国の老子と云う者の説によれり、と思い云う人、これかれ有り。そもそもおのが道を説く趣は、いささかも私のさかしらをば交えず、神典に見えたるままなる事、あだし注釈どもと、くらべ見て知るべし。かくてその趣の、たまたま彼の老子と云う者の言と、似たるところどころの有るを見て、ゆくりなく、それによりて云えりとは、例のかのもろこしの国をおきて外に国は無く、かの国ならでは、何事も始まらぬ事と、ひたおもむきに思いとれる、ひが心より、さは思うなんめり。古より、漢の国と通えること無く、たがいに聞きも及ばざりし国々にも、程々につけつつ、有るべきかぎりの事は、おのおの本より有りける中にも、殊に皇国は、万の国の本、よろずの国の宗と有る御国なれば、万の国々にわたりて、正しきまことの道は、ただ皇国にこそ伝わりたれ、他国には、伝われる事無ければ、この道を知ることあたわず。然るにもろこしの国に、かの老子と云いしは、すぐれて賢くたどり深き人にこそ有りけめ。
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