直毘霊 / 天津日嗣の高御座
天津日嗣の高御座は。天皇の御統を日嗣と申すは、日神の御心を御心として、其御業を嗣坐が故なり、又その御座を高御座と申すは、唯に高き由のみにあらず、日神の御座なるが故なり、日には、高照とも高日とも日高とも申す古語のあるを思へ、さて日神の御座を、次々に受傳へ坐て、其御座に大坐ます天皇命にませば、日神に等く坐こと決し、かゝれば、天津日神のおほみうつくしみを蒙らむ者は、誰しか天皇命には、可畏み敬び尊みて、奉仕らざらむ。あめつちのむた、ときはにかきはに動く世なきぞ、此道の靈く奇く、異國の萬の道にすぐれて、正しき高き貴き徵なりける。
新字:天津日嗣の高御座は。天皇の御統を日嗣と申すは、日神の御心を御心として、其御業を嗣坐が故なり、又その御座を高御座と申すは、唯に高き由のみにあらず、日神の御座なるが故なり、日には、高照とも高日とも日高とも申す古語のあるを思へ、さて日神の御座を、次々に受伝へ坐て、其御座に大坐ます天皇命にませば、日神に等く坐こと決し、かゝれば、天津日神のおほみうつくしみを蒙らむ者は、誰しか天皇命には、可畏み敬び尊みて、奉仕らざらむ。あめつちのむた、ときはにかきはに動く世なきぞ、此道の霊く奇く、異国の万の道にすぐれて、正しき高き貴き徴なりける。
書き下し
天津日嗣の高御座は。天皇の御統を日嗣と申すは、日神の御心を御心として、その御業を嗣ぎ坐すが故なり。またその御座を高御座と申すは、ただに高き由のみにあらず、日神の御座なるが故なり。日には、高照とも高日とも日高とも申す古語のあるを思え。さて日神の御座を、次々に受け伝え坐して、その御座に大坐します天皇命にませば、日神に等しく坐すこと決し。かかれば、天津日神の大御慈しみを蒙らむ者は、誰しか天皇命には、畏み敬び尊みて、仕え奉らざらむ。天地のむた、常盤に堅盤に動く世なきぞ、この道の霊く奇しく、異国の万の道に優れて、正しき高き貴き徴なりける。
現代語訳
天津日嗣の高御座は(天地とともに動くことがない)。天皇の御血統を「日嗣」と申し上げるのは、日の神の御心を御心として、その御業をお継ぎになるからである。またその御座を「高御座」と申し上げるのは、ただ高いというだけの理由ではなく、日の神の御座だからである。日については、高照とも高日とも日高とも申す古語があることを思え。さて日の神の御座を次々に受け伝えなさって、その御座においでになる天皇であるから、日の神と等しくいらっしゃることは明らかだ。そうであれば、天津日神の大いなる慈しみを受ける者は、誰が天皇を畏れ敬い尊んでお仕えしないことがあろうか。天地とともに、永遠に堅固に、動く世がないことこそ、この道が霊妙で不思議であり、異国のあらゆる道に優れて、正しく高く貴いことの証なのである。
解説
関連する章句
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『直毘霊』天つ神の御心を大御心として天の下には荒ぶる神もなく、まつろわぬ人もなく。幾万代を経とも、誰しの奴か、大皇に背き奉らむ、あなかしこ。御代御代の間に、たまたまもまつろわぬ穢き奴もあれば、神代の古事のまにまに、大御稜威を輝かして、たちまちに打ち滅ぼし給う物ぞ。千万御世の御末の御代まで、天皇命はしも、大御神の御子とましまして。御世御世の天皇は、すなわち天照大御神の御子になも大坐します。故、天つ神の御子とも、日の御子とも申せり。天つ神の御心を大御心として。何わざも、己命の御心もてさかしだち賜わずて、ただ神代の古事のままに、行いたまい治め賜いて、疑い思ほす事しある折は、御卜事もて、天つ神の御心を問わして物し給う。神代も今も隔てなく。ただ天津日嗣の然ましますのみならず、臣・連・八十伴緒に至るまで、氏姓を重みして、子孫の八十続き、その家々の職業を受け継がいつつ、祖神たちに異ならず、ただ一世の如くにして、神代のままに仕え奉れり。
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『直毘霊』皇大御国皇大御国は、掛けまくも可畏き神御祖天照大御神の、御生れ坐せる大御国にして、万国に勝れたる所以は、先ずここにいちじるし。国という国に、この大御神の大御徳かがふらぬ国なし。大御神、大御手に天つ璽を捧げ持ちて、御代御代に御しるしと伝わり来つる三種の神宝はこれぞ。万千秋の長秋に、吾が御子の知ろしめさむ国なりと、ことよさし賜えりしまにま、天つ日嗣・高御座の、天地の共に動かぬことは、既にここに定まりつ。天雲のむかぶす限り、谷蟆のさ渡るきわみ、皇御孫命の大御食国と定まりて、
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『直毘霊』神とさすもの此と彼と其の故は、まず神とさすもの、此と彼と始めより同じからず。かの国にしては、いわゆる天地陰陽の、測りがたく霊しきをさしていうめれば、ただ空しき理りのみにして、たしかに其の物あるにあらず。さて皇国の神は、今の現に天の下知ろしめす天皇の皇祖に坐して、さらにかの空しき理りをいう類にはあらず。
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『直毘霊』当然の理をもて定めむとするかの善人も禍り、悪人も福ゆるたぐい、尋常の理に逆える事の多かるも、皆この神の所為なるを、外国には、神代の正しき伝説なくして、この所以をえ知らざるが故に、ただ天命の説を立てて、何事もみな、当然の理をもて定めむとするこそ、いとおこなれ。然れども、天照大御神高天原に大坐しまして、大御光はいささかも曇りまさず、この世を御照らしましまし、天津御璽はた、はふれまさず伝わり坐して、事依さし賜いしまにまに、天の下は御孫命の知ろしめして。
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『直毘霊』聖人もただ賊の為遂げたる者異国は、本より主の定まれるがなければ、ただ人もたちまち王になり、王もたちまちただ人にもなり、亡び失せもする、古よりの風俗なり。さて国を取らむと謀りて、え取らざる者をば賊と言いて賤しめ憎み、取り得たる者をば、聖人と言いて尊み仰ぐめり。さればいわゆる聖人も、ただ賊の為遂げたる者にぞありける。掛けまくも可畏きや吾が天皇尊はしも、然る卑しき国々の王どもと、等並には坐しまさず、この御国を生み成したまえりし神祖命の、御自ら授け賜える皇統にましまして、天地の始めより、大御食国と定まりたる天の下にして、大御神の大命にも、天皇悪しく坐しまさば、なまつろいそとは詔りたまわずあれば、善く坐しまさむも悪しく坐しまさむも、側より窺い量り奉ることあたわず。天地のあるきわみ、月日の照らす限りは、幾万代を経ても、動き坐さぬ大君に坐せり。故、古語にも、当代の天皇をしも神と申して、実に神にし坐しませば、善悪き御上の論いを捨てて、ひたぶるに畏み敬い仕え奉るぞ、まことの道にはありける。然るを中頃の世の乱れに、
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『直毘霊』現御神と大八洲国しろしめすかれ現御神と大八洲国しろしめすと申すも、その御世御世の天皇の御政、やがて神の御政なる意なり。万葉集の歌などに、神随云云とあるも、同じ心ぞ。神国と韓人の申せりしも、諾にぞありける。古
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