直毘霊 / 現御神と大八洲国しろしめす
かれ現御神と大八洲國しろしめすと申すも、其御世々々の天皇の御政、やがて神の御政なる意なり、萬葉集の歌などに、神隨云云とあるも、同じこゝろぞ、神國と韓人の申せりしも、諾にぞ有ける。古
新字:かれ現御神と大八洲国しろしめすと申すも、其御世々々の天皇の御政、やがて神の御政なる意なり、万葉集の歌などに、神随云云とあるも、同じこゝろぞ、神国と韓人の申せりしも、諾にぞ有ける。古
書き下し
かれ現御神と大八洲国しろしめすと申すも、その御世御世の天皇の御政、やがて神の御政なる意なり。万葉集の歌などに、神随云云とあるも、同じ心ぞ。神国と韓人の申せりしも、諾にぞありける。古
現代語訳
だから「現御神(あきつみかみ)として大八洲国をお治めになる」と申し上げるのも、その御代御代の天皇の政治が、そのまま神の政治であるという意味である。『万葉集』の歌などに「神ながら(神随)」云々とあるのも、同じ心である。韓人(新羅の王)が(日本を)神国と申したというのも、まことにもっともなことであった。古(への大御世には……と次に続く)
解説
天皇を「現御神」と称える言い方を、宣長は天皇の政治がそのまま神の政治であることの表れと読む。「現御神と大八洲国しろしめす」は『続日本紀』の宣命に繰り返し現れる定型句であり、『万葉集』に「神ながら」と詠まれるのも同じ心だ、と言う。さらに『日本書紀』神功皇后紀で、新羅の王が「東に神国あり、日本という」と恐れて降ったという記事を踏まえ、異国の人が神国と呼んだのももっともだと結ぶ。古典から言葉の用例を拾い、そこに古の心を見るのが宣長の方法である。この神国観は近代に国家の理念として大きく掲げられたが、宣長自身はあくまで古語の意味を問うている。古い言葉の用例から、その時代の人の世界観を読み取るとき、何に気をつけるべきだろうか。
関連する章句
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『直毘霊』天つ神の御心を大御心として天の下には荒ぶる神もなく、まつろわぬ人もなく。幾万代を経とも、誰しの奴か、大皇に背き奉らむ、あなかしこ。御代御代の間に、たまたまもまつろわぬ穢き奴もあれば、神代の古事のまにまに、大御稜威を輝かして、たちまちに打ち滅ぼし給う物ぞ。千万御世の御末の御代まで、天皇命はしも、大御神の御子とましまして。御世御世の天皇は、すなわち天照大御神の御子になも大坐します。故、天つ神の御子とも、日の御子とも申せり。天つ神の御心を大御心として。何わざも、己命の御心もてさかしだち賜わずて、ただ神代の古事のままに、行いたまい治め賜いて、疑い思ほす事しある折は、御卜事もて、天つ神の御心を問わして物し給う。神代も今も隔てなく。ただ天津日嗣の然ましますのみならず、臣・連・八十伴緒に至るまで、氏姓を重みして、子孫の八十続き、その家々の職業を受け継がいつつ、祖神たちに異ならず、ただ一世の如くにして、神代のままに仕え奉れり。
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『直毘霊』皇大御国皇大御国は、掛けまくも可畏き神御祖天照大御神の、御生れ坐せる大御国にして、万国に勝れたる所以は、先ずここにいちじるし。国という国に、この大御神の大御徳かがふらぬ国なし。大御神、大御手に天つ璽を捧げ持ちて、御代御代に御しるしと伝わり来つる三種の神宝はこれぞ。万千秋の長秋に、吾が御子の知ろしめさむ国なりと、ことよさし賜えりしまにま、天つ日嗣・高御座の、天地の共に動かぬことは、既にここに定まりつ。天雲のむかぶす限り、谷蟆のさ渡るきわみ、皇御孫命の大御食国と定まりて、
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『直毘霊』惟神神ながら安国と、平けく知ろしめしける大御国になもありければ、書紀の難波の長柄の朝廷の御巻に、惟神とは神道に随い給いて、自ずから神道有るを謂う也とあるを、よく思うべし。神の道に随うとは、天の下治め賜う御しわざは、ただ神代より有り来しまにまに物し賜いて、いささかもさかしらを加え給うことなきをいう。さてしか神代のまにまに、大らかに知ろしめせば、おのずから神の道はたらいて、他に求むべきことなきを、自ずから神道有りとはいうなりけり。
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『直毘霊』神とさすもの此と彼と其の故は、まず神とさすもの、此と彼と始めより同じからず。かの国にしては、いわゆる天地陰陽の、測りがたく霊しきをさしていうめれば、ただ空しき理りのみにして、たしかに其の物あるにあらず。さて皇国の神は、今の現に天の下知ろしめす天皇の皇祖に坐して、さらにかの空しき理りをいう類にはあらず。
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『神皇正統記』巻一 神国の名大日本者神国也。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国と云ふ也。
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『直毘霊』大御心を心として古えの大御代には、下が下まで、唯天皇の大御心を心として。天皇の思ほしめす御心のまにまに仕え奉りて、己が私心は露なかりき。ひたぶるに大命を畏み敬い服いて、大御慈しみの御蔭に隠ろいて、おのもおのも祖神を斎き祭りつつ天皇の大御皇祖神の御前を拝み祭り坐すがごとく、臣連八十伴緒、天の下の百姓に至るまで、各祖神を祭るは常にて、又天皇の朝廷のため天の下のために、天つ神国つ神諸をも祭り坐すが如く、下なる人どもも、事に触れては、福を求むと、善き神に請い祈ぎ、禍を逃れんと、悪しき神をも和め祭り、又たまたま身に罪穢れもあれば、祓い清むるなど、皆人の情にして、必ず有るべきわざなり、然るを心だにまことの道に適いなば、など言うめる筋は、仏の教え儒の見にこそ、さることもあらめ、神の道には、甚く背けり、又異国には、神を祭るにも、唯理を先にして、様々議論あり、淫祀など言いて、戒むることもある、皆さかしらなり、凡て神は、仏などいうなる物の趣とは異にして、善き神のみにはあらず、悪しきも有りて、心も所行も、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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