無門関 / 黃龍三關
我手何似佛手 摸得枕頭背後 不覺大笑呵呵 元來通身是手 我腳何似驢腳 未舉步時踏著 一任四海橫行 倒跨楊岐三腳 人人有箇生緣 各各透徹機先 那吒折骨還父 五祖豈藉爺緣 佛手驢腳生緣 非佛非道非禪 莫怪無門關險 結盡衲子深冤
新字:我手何似仏手 摸得枕頭背後 不覚大笑呵呵 元来通身是手 我脚何似驢脚 未舉歩時踏著 一任四海横行 倒跨楊岐三脚 人人有箇生縁 各各透徹機先 那吒折骨還父 五祖豈藉爺縁 仏手驢脚生縁 非仏非道非禅 莫怪無門関険 結尽衲子深冤
書き下し
我が手、何ぞ仏手に似たる。枕頭の背後を摸得して、覚えず大笑呵呵(かか)、元来通身是れ手。我が脚、何ぞ驢脚に似たる。未だ歩を挙げざる時に踏著す。一任(さもあらばあれ)四海に横行するも、倒(さかしま)に楊岐の三脚に跨る。人人箇の生縁有り、各各機先に透徹す。那吒(なた)は骨を折って父に還す、五祖豈に爺縁を藉(か)らんや。仏手、驢脚、生縁、仏に非ず、道に非ず、禅に非ず。怪しむこと莫れ、無門の関の険しきことを。衲子(のうす)の深冤(しんえん)を結び尽くす。
現代語訳
わたしの手は、どうして仏の手に似ているのか。枕の後ろを手探りして、思わず大笑いした。もともと全身が手だったのだ。わたしの足は、どうして驢馬の足に似ているのか。まだ一歩も踏み出さないうちに、もう踏みしめている。四海を思うままにのし歩くのはよいが、逆さまに楊岐(楊岐方会)の三本足の驢馬にまたがっている。人にはそれぞれ生まれた縁がある。一人一人が、機が動く前にすっかり見通している。那吒(なた、仏法を守る鬼神の子)は骨を砕いて父に返した。五祖(五祖弘忍)はどうして父の縁を借りる必要があったろうか。仏の手、驢馬の足、生まれた縁。それは仏でもなく、道でもなく、禅でもない。無門の関所が険しいのを怪しんではならない。修行僧たちの深い恨みを、ことごとく買ってしまったのだ。
解説
関連する章句
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『無門関』第三則 俱胝豎指無門曰く、倶胝并びに童子の悟処は、指頭上に在らず。若し者裏に向かって見得せば、天龍、倶胝并びに童子と、自己と一串に穿却せん。頌に曰く、倶胝鈍置す老天龍、利刃単提して小童を勘す。巨霊手を抬ぐるに多子無し、分破す華山の千万重。
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『無門関』第一則 趙州狗子無門曰く、参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。且く道え、如何なるか是れ祖師の関。只だ者の一箇の無字、乃ち宗門の一関なり。遂に之を目けて禅宗無門関と曰う。透得過する者は、但だ親しく趙州に見ゆるのみに非ず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛廝い結んで、同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透関を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅を将て、通身に箇の疑団を起こして、箇の無字に参ぜよ。昼夜に提撕して、虚無の会を作すこと莫かれ、有無の会を作すこと莫かれ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久久に純熟すれば、自然に内外打成一片ならん。啞子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん。且く作麼生か提撕せん。平生の気力を尽くして、箇の無字を挙せよ。若し間断せずんば、好し、法燭の一点すれば便ち著くに似ん。頌に曰く、狗子仏性、全提正令。纔かに有無に渉れば、喪身失命せん。
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『無門関』自序仏語は心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且く作麼生か透らん。豈に道うことを見ずや、門より入る者は是れ家珍にあらず、縁に従って得る者は始終成壊すと。恁麼の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡を剜るに似たり。何ぞ況んや言句に滞り、解会を覓むるをや。棒を掉って月を打ち、靴を隔てて痒きを爬く、甚の交渉か有らん。慧開、紹定戊子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり。衲子の請益に因って、遂に古人の公案を将て、門を敲く瓦子と作し、機に随って学者を引導す。竟爾として抄録し、覚えず集を成す。初めより前後を以て叙列せず、共に四十八則と成し、通じて無門関と曰う。若し是れ箇の漢ならば、危亡を顧みず単刀直入せん、八臂の那吒も他を攔えて住めず。縦使い西天の四七、東土の二三も、只だ風を望んで命を乞うことを得ん。設し或いは躊躇せば、也た窓を隔てて馬騎を看るに似て、眼を貶き得来たれば、早已に蹉過せん。頌に曰く、大道無門、千差路有り。此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。
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『無門関』第四十七則 兜率三關無門曰く、若し能く此の三転語を下し得ば、便ち以て随処に主と作り、縁に遇うて即ち宗なるべし。其れ或いは未だ然らずんば、麤餐(そさん)は飽き易く、細嚼(さいしゃく)は飢ゑ難し。頌に曰く、一念普く観ず無量劫、無量劫の事即ち如今(じょこん)。如今箇の一念を覷破(しょは)すれば、如今覷る底(てい)の人を覷破す。
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『無門関』後序従上の仏祖、垂示の機縁、款に拠って案を結び、初めより剰語無し。脳蓋を掲翻し、眼睛を露出す。肯(あ)へて諸人の直下に承当して他に従って覓(もと)めざらんことを要す。若し是れ通方の上士ならば、纔(わず)かに挙著するを聞いて、便ち落処を知らん。了(つい)に門戸の入るべき無く、亦た階級の升(のぼ)るべき無し。臂を掉(ふる)って関を度り、関吏を問はず。豈に見ずや、玄沙の道ふことを、「無門は解脱の門、無意は道人の意」と。又、白雲道ふ、「明明に知道す、只だ是れ者箇、甚麼(なん)と為てか透不過なる」と。恁麼(いんも)の説話も、也た是れ赤土に牛嬭(ぎゅうない)を搽(ぬ)る。若し無門関を透得せば、早く是れ無門を鈍置す。若し無門関を透不得ならば、亦乃(また)自己に辜負(こふ)す。所謂、涅槃の心は暁(さと)り易く、差別の智は明らめ難し。差別の智を明らめ得ば、家国自ずから安寧ならん。時に紹定改元、解制前五日、楊岐八世の孫、無門比丘慧開、謹んで識(しる)す。
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『無門関』第四十七則 兜率三關兜率(とそつ)の悅和尚、三關を設けて學者に問ふ。「撥草參玄は只だ性を見んと圖(はか)る。即今上人の性、甚(いづ)れの處にか在る」。「自性を識得すれば、方に生死を脫す。眼光落つる時、作麼生(そもさん)か脫せん」。「生死を脫し得ば、便ち去處を知る。四大分離して、甚れの處に向かひてか去る」。
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